こんにちは

一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニックです

院長の城めぐりをご紹介します

今回訪れた城は岐阜県岐阜市にある岐阜城です

墨俣城や大垣城のページで、岐阜城を望むことができると書いたため、実際に岐阜城に行ってみました

岐阜城は金華山全体を利用した大きな複合的な城で、山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつ、それらの間を結ぶ登城路やさらに山中の要所に配された砦があり、山そのものも天然の要害として機能していました

岐阜城は稲葉山(金華山)に築かれたことから、かつて稲葉山城と呼ばれていました

鎌倉時代、二階堂行政が稲葉山山頂に砦を築いたのが始まりだと伝えられています

15世紀中頃 、美濃守護代斎藤利永がこの城を修復して居城としました

戦国時代、守護代斉藤家やその家臣の長井家が城主を務めました(長井家の長井新九郎規秀が後の斎藤道三です)

1533年(天文2年) 斎藤道三が城主となり、稲葉山山頂に城作りを始めました

その後、斉藤道三は守護の土岐頼芸を追放し、名実共に美濃国を治めるようになりました

しかし、1556年(弘治2年)息子義龍との争い(長良川の戦い)で道三は戦死します

1561年(永禄4年)義龍は急死し、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となりました

1567年(永禄10年) 織田信長が稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)し、龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡しました

同年、信長は本拠地を小牧山城から稲葉山城に移転し、城を「稲葉山城」から「岐阜城」に、町を「井口」から「岐阜」に、山を「稲葉山」から「金華山」に改めました

「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったことと、孔子の生誕地が「曲阜」であることから、太平と学問の地になるように願いをこめて「岐阜」という地名にしたそうです

この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになりました

1576年(天正4年)、信長は嫡子信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲り、信長は安土城に移転し、岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されました

1582年(天正10年)、信長と信忠が本能寺の変で死去した後は信長の三男であった信孝が城主となりました

しかし、信長の次男で兄の信雄との争い(実際は信雄を味方した羽柴秀吉らと信孝を味方した柴田勝家らの戦い)により敗れ、信孝は切腹させられました

1583年(天正11年)、池田恒興が美濃国13万石を拝し大垣城主となると、息子の元助が岐阜城主となりました

1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男輝政が城主となりました

1591年(天正19年)、輝政に代わって豊臣秀勝(豊臣秀吉の甥)が城主となりました

1592年(文禄元年)、秀勝が死去すると、織田秀信(幼名・三法師、信長の孫)が美濃国13万石で城主となりました

1600年(慶長5年)、秀信は石田三成に味方し西軍方につき、関ヶ原の戦いの前哨戦(岐阜城の戦い)で福島正則や池田輝政らに岐阜城を攻められて敗れ、岐阜城は落城しました

1601年(慶長6年)、徳川家康は岐阜城を廃城し、奥平信昌に美濃加納10万石を与えて、加納城(岐阜県岐阜市)を新たに築城させました

その際、岐阜城山頂にあった天守や櫓、山中や山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたそうです

江戸時代の天下泰平の時代になると、山城は不要となり平城が好まれ、藩の政治の中心となりました

1910年(明治43年)、模擬天守が復元されるも、1943年(昭和18年)、失火により焼失しました

1956年(昭和31年)、3層4階建ての模擬天守が復元されました

2006年(平成29年)4月6日、日本100名城(39番)に選定されました

私は100名城めぐりも趣味ですので、到着後早速スタンプをゲットしました

 

旅行記を紹介します

自動車でクリニックより移動しました

麓にある岐阜公園入り口には若き日の織田信長像があります(が金華山山頂の模擬天守です)

公園内を歩いて、ロープウェイ乗り場に向かいます

3月末でしたので、きれいな桜に癒やされました

ロープウェイに乗り約4分、山頂駅に到着しました

山頂駅から模擬天守には徒歩で約10分、その途中にリス村があります

リスに触れ合えるとのことで、多くの観光客の方が列を成していました

リス村を過ぎ、石階段を登って行きます、始めはなだらかでしたが

終盤はやや急傾斜でした

そして、模擬天守がお目見えです

「岐阜城」の表示と模擬天守が映えます!!

院長は天守閣をこんなアングルで見るのが好きです(*^o^*)

模擬天守の中は岐阜城の歴史について掲示されていました

織田信長時代の岐阜城はこんな感じで、山頂の天守閣と麓の居館があり、普段信長は麓の居館に住んでいたそうです

復元した信長居館のイメージです、ルイス・フロイスによると京都の金閣寺よりも金ぴかで荘厳だったそうです

金の信長像のレプリカもありました、同じものがJR岐阜駅前にもあります

信長の鎧像もありました

天守最上階よりの眺めです、濃尾平野が一望できます(長良川方向)

濃尾平野の広さに圧倒されます、当時の信長がこの景色を見ながら、天下統一を誓ったことを考えると感慨深い思いです(木曽川方向)

きれいに晴れた日なら名古屋の名駅ビル群も一望することができるそうですが、今日は黄砂のためか見えませんでした

 

岐阜公園に戻り、周囲を散策してみました

岐阜公園内には「板垣退助像」がありました

1882年(明治15年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件が起きました

自由党の総理であった板垣退助は、金華山麓の中教院で懇親会に出席し演説を行いました

その後、会場を出ようとしたところ、短刀を持った刺客に襲われ、板垣は胸や手などを負傷しました

負傷した直後に、板垣は有名な「板垣死すとも自由は死せず」と発言したと言われています

 

そして岐阜公園を出て、岐阜歴史資料館を過ぎると、正法寺があります

ここには江戸時代後期に塑造・漆箔により造立された国内最大規模の籠大仏「岐阜大仏」があります

巷では日本三大大仏の1つと呼ばれており、座高は約13.7mで鎌倉大仏(約13m)より高く、奈良大仏(約15m)より低いそうです

 

今回の旅は昨年の墨俣城や大垣城と繋がりのある岐阜城をめぐることができ、美濃国における歴史的な繋がりを知り、有意義な城めぐりでした

 

岐阜といえば”川魚”やっぱり鮎ですね!!

長良川の鵜飼いも有名ですし、その近くの川原町の料理屋さんで鮎を食べるのがオススメです!!

夏は長良川上流にあるヤナで鮎の塩焼き、唐揚げ、刺身など、最高です!!

スイーツとしては鮎菓子が良いですよ!!