WEB予約

  1. HOME
  2. スタッフブログ
  3. 院長ブログ
  4. 院長の城めぐり vol.43(長浜城)

blog院長ブログ

院長の城めぐり vol.43(長浜城)

【城めぐり】豊臣秀吉が初めて築いた城・長浜城と城下町の歴史を訪ねて|滋賀県長浜市

今回は、滋賀県長浜市にある長浜城と、その城下町に残る歴史的な史跡を訪ねました。

長浜城は、戦国時代の武将・豊臣秀吉が、織田信長の家臣として初めて本格的な城づくりと城下町の整備を手がけたことで知られています。

それまで「今浜」と呼ばれていたこの地は、秀吉によって「長浜」と改められました。

現在の長浜市は、黒壁スクエアなどの観光地として知られていますが、その町並みの基礎を築いたのは秀吉だったのです。

今回は長浜城を中心に、城下町の歴史を感じることができる長浜別院大通寺、豊臣秀吉を祀る豊国神社、そして2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に関連した展示施設などを巡りました。

長浜城の歴史|豊臣秀吉が初めて築いた城

小谷城から長浜城へ

長浜城の歴史は、天正元年(1573年)に織田信長が北近江の戦国大名・浅井長政を滅ぼしたことから始まります。

浅井氏は、現在の長浜市湖北町にある小谷城を本拠地としていました。

小谷城は険しい山の地形を利用した堅固な山城で、日本五大山城の一つにも数えられています。

しかし、浅井氏が滅亡すると、信長はその旧領の支配を家臣の羽柴秀吉に任せました。

秀吉は当初、小谷城に入りましたが、やがて琵琶湖に面した今浜の地に新たな城を築くことを決意します。

これが長浜城です。

築城は1573年頃に始まり、1570年代半ばには城と城下町の整備が進められたと考えられています。

なぜ秀吉は長浜に城を築いたのか?

ここが長浜城の歴史を理解するうえで重要なポイントです。

小谷城は軍事的な防御力に優れた山城でしたが、交通や経済活動には必ずしも便利ではありませんでした。

一方、長浜は琵琶湖に面し、水運を利用できる場所に位置しています。

当時の琵琶湖は、現在の高速道路にも匹敵する重要な交通路でした。

琵琶湖の水運を利用すれば、近江国内だけでなく、京都方面や北陸方面との物資の輸送にも有利でした。

秀吉はこの地に城を築くことで、軍事拠点だけでなく、経済活動の中心となる城下町を形成しようとしたのです。

長浜城は、戦国時代の山城から、政治・経済の中心となる近世城郭への移行を象徴する城といえます。

北国街道を表す石碑もありました。

長浜城の城郭構造|琵琶湖を利用した水城

長浜城の大きな特徴は、琵琶湖に面して築かれた水城であったことです。

当時の城は琵琶湖の湖岸に接し、湖水や水路を防御施設として利用していました。

城郭には本丸を中心に複数の曲輪が設けられ、堀によって区画されていたと考えられています。

また、琵琶湖に直接船を出せる立地は、軍事物資や兵員の輸送にも有利でした。

長浜城は、単なる戦闘用の城ではなく、水運を活用した交通・物流拠点でもあったのです。

豊公園近くには琵琶湖があり、太閤井戸を見ることができました。

また、公園内には秀吉像もあります。

長浜城の天守について

秀吉が築いた長浜城には、天守が存在したと伝えられています。

ただし、当時の天守の正確な外観や構造は明らかになっていません。

現在、豊公園内に建っている天守風の建物は、1983年に建設された長浜城歴史博物館です。

犬山城や伏見城などを参考にした復興的な外観を持ちますが、秀吉時代の天守を忠実に復元したものではありません。

この点は城郭ファンとして押さえておきたいところです。

長浜城の廃城と彦根城への移築

秀吉が長浜を離れた後、長浜城には柴田勝豊や山内一豊、内藤信成らが関わりました。

江戸時代初期には長浜城は廃城となり、その建築部材の一部は彦根城などに転用されたと伝えられています。

彦根城の天秤櫓は、長浜城から移築されたという伝承が残る建物として知られています。

また、長浜市内の大通寺の台所門などにも、長浜城の遺構を移築したという伝承があります。

ただし、これらの移築伝承には史料的に確定していない部分もあり、慎重に理解する必要があります。

現在の長浜城跡では、秀吉が築いた城の全容を直接確認することは難しくなっています。

それでも、琵琶湖に面した立地や城下町の町割りをたどることで、秀吉の都市計画を感じることができます。

天守閣からの長浜の眺望

天守閣の最上階は展望所となっており、長浜の町並みを望むことができました。

当時の秀吉、秀長兄弟が見た景色を感じることができ、とても趣深かったです。

琵琶湖も間近に望むことができます。

長浜城下町|秀吉が築いた商業都市

長浜城の魅力は、城そのものだけではありません。

秀吉が築いた城下町が、その後の長浜の発展につながったことも重要です。

秀吉は城下町の形成にあたり、商人や職人を集め、商業活動を促進しました。

長浜では楽市の政策が進められ、商人の活動が活発になったとされています。

城下町には武家屋敷だけでなく、町人の居住地や商業地域が整備されました。

その後、長浜城が廃城となっても、長浜は北国街道沿いの宿場町や商業都市として発展を続けました。

現在の長浜の古い町並みには、こうした歴史が受け継がれています。

城下町に残る白壁の土蔵

城下町を歩いていると、白壁の土蔵や黒い板壁の建物が目に入ります。

こうした建築物は、商業都市として発展した長浜の歴史を感じさせます。

今回撮影した白壁の土蔵も、長浜の伝統的な町並みを象徴する建物の一つです。

長浜別院大通寺|城下町に残る壮大な寺院建築

長浜の城下町を散策するなかで、特に印象的だったのが長浜別院大通寺です。

大通寺は真宗大谷派の寺院で、「長浜御坊」の名でも親しまれています。

現在の長浜市元浜町に位置し、長浜城下町を代表する歴史的建造物の一つです。

大通寺の歴史

大通寺の起源は、江戸時代初期にさかのぼります。

慶長7年(1602年)、本願寺の東西分立に関わる歴史のなかで、長浜に東本願寺系の道場が設けられました。

当初は長浜城の旧地にありましたが、その後、現在の場所に移転しています。

寛永16年(1639年)には大通寺の寺号を称するようになりました。

大通寺は長浜の人々の信仰を集めるとともに、地域の文化や経済にも大きな影響を与えました。

壮大な山門

大通寺に到着すると、まず目に入るのが巨大な山門です。

重厚な木造建築で、二層構造の堂々とした姿が印象的です。

現在の山門は江戸時代後期に建てられたもので、長浜を代表する歴史的建造物となっています。

山門をくぐると、広々とした境内が広がります。

大通寺の本堂

境内の中心に位置する本堂は、江戸時代の大規模な真宗寺院建築を今に伝える建物です。

現在の本堂は江戸時代中期に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

大きな屋根と広い堂内は、長浜の人々が大通寺を信仰の中心として大切にしてきたことを物語っています。

大通寺の歴史を紹介する案内板

境内には、大通寺の歴史や建築物、文化財を紹介する案内板が設置されています。

大通寺には、建築物だけでなく、障壁画や庭園などの貴重な文化財が残されています。

特に、江戸時代の文化を伝える障壁画や庭園は見どころです。

大通寺の庭園

大通寺では、美しい日本庭園も見学しました。

池や石組み、樹木が巧みに配置された庭園は、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

大通寺には複数の歴史的庭園があり、国の名勝に指定されている庭園もあります。

今回撮影した庭園も、自然の景観を小さな空間に凝縮したような美しさが印象的でした。

大通寺の鐘楼周辺

境内では、歴史を感じさせる梵鐘も見ることができました。

木造建築の軒先と梵鐘が調和し、長い歴史を持つ寺院ならではの風景が広がっています。

豊国神社|豊臣秀吉を祀る長浜の神社

長浜城下町には、豊臣秀吉を祀る豊国神社があります。

豊国神社は、長浜の人々が秀吉を大切にしてきた歴史を伝える神社です。

豊国神社の歴史

豊臣秀吉が亡くなったのは慶長3年(1598年)です。

秀吉の死後、各地に秀吉を祀る豊国神社が建立されました。

長浜でも慶長5年(1600年)、秀吉を祀る神社が創建されたと伝えられています。

しかし、元和元年(1615年)に豊臣家が滅亡すると、徳川幕府のもとで豊国神社の祭祀は制限されることになります。

長浜でも豊国神社は一時廃絶に追い込まれました。

その後、地元の人々は秀吉への信仰を守り続け、江戸時代後期には再び祀られるようになりました。

明治時代になると、豊国神社として復興しました。

豊国神社の鳥居

境内の入口には、大きな石造りの鳥居が建っています。

鳥居の周囲には、秀吉ゆかりの史跡であることを示す案内が設けられています。

豊臣秀吉ゆかりの馬の像

境内には、豊臣家の家紋である五七桐をあしらった馬の像があります。

馬は戦国武将にとって重要な存在であり、武将の権威や武勇を象徴するものでもありました。

加藤清正公像

豊国神社の境内には、加藤清正の銅像も建っています。

加藤清正は、豊臣秀吉に仕えた武将で、賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」の一人として活躍しました。

その後、肥後熊本の大名となり、熊本城を築いたことでも知られています。

加藤清正は築城の名手としても有名です。

熊本城の高石垣や複雑な防御構造は、現在でも城郭ファンから高く評価されています。

長浜で加藤清正の像を見ると、秀吉のもとで活躍した武将たちの歴史が身近に感じられます。

豊国神社の由緒

境内には豊国神社の歴史を紹介する案内板があります。

秀吉の死後、豊国神社が廃絶と再興を経験した歴史が詳しく説明されています。

豊国神社の社殿

境内の奥には、立派な社殿が建っています。

唐破風の屋根には精巧な彫刻が施され、豊臣秀吉を祀る神社にふさわしい格式を感じます。

境内にある稲荷社

境内には朱色の鳥居が連なる稲荷社もあります。

豊国神社は秀吉を祀る神社ですが、境内には複数の神様が祀られており、地域の人々の信仰を集めています。

長浜の人々に受け継がれた秀吉への思い

豊国神社には、長浜の人々と秀吉の関係を紹介する資料が展示されています。

特に興味深かったのは、長浜城下町の推定復元図です。

復元図には、琵琶湖に面した長浜城と、その周囲に広がる城下町の姿が描かれています。

当時の長浜城は、現在の町並みからは想像しにくいほど、琵琶湖と密接に結びついた城郭でした。

また、城下町には碁盤目状の道路や水路が整備され、計画的に町が形成されていたことが分かります。

秀吉が長浜に築いたのは、単なる城ではなく、新しい都市そのものだったのです。

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』と長浜

今回の長浜散策では、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に関連する展示施設も訪れました。

『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長を主人公とする作品です。

秀長は兄の秀吉を支え、豊臣政権の成立に大きく貢献した人物として知られています。

秀吉が長浜城主となった時期は、豊臣兄弟が織田信長の家臣として力をつけていった重要な時代でした。

長浜は、豊臣兄弟の出世の歴史を考えるうえでも重要な場所なのです。

大河ドラマ館の展示

大河ドラマ館では、ドラマで使用された衣装や出演者に関する展示を見ることができました。

当時の衣装を再現した展示からは、戦国時代の武将や女性たちの生活を想像することができます。

また、館内には出演者の等身大パネルが設置され、記念撮影ができるようになっていました。

歴史上の人物をドラマの登場人物として見ることで、戦国時代の出来事がより身近に感じられました。

長浜城と豊臣秀吉|城めぐりを振り返って

今回の長浜城めぐりで改めて感じたのは、豊臣秀吉が優れた武将であるだけでなく、都市づくりにも大きな才能を発揮した人物だったということです。

秀吉は、小谷城という戦国時代の山城から、琵琶湖に面した長浜城へと拠点を移しました。

そして、城下町を整備し、商人や職人を集め、交通と経済の中心となる町を築きました。

その後、秀吉は天下統一へと進んでいきますが、長浜城での経験は、後の大坂城や伏見城の城下町整備にもつながる重要な経験だったと考えられます。

長浜城は現在、当時の城郭建築の大部分が失われています。

しかし、長浜の町を歩くと、秀吉が築いた城下町の歴史が随所に残されていることに気づきます。

長浜別院大通寺の壮大な建築、豊国神社に受け継がれる秀吉への信仰、そして現在も続く商業都市としてのにぎわい。

これらは、長浜城が単なる軍事施設ではなく、地域の発展を支えた存在だったことを物語っています。

長浜城は、豊臣秀吉の天下統一への第一歩を感じることができる、歴史的に重要な城でした。

グルメ編|長浜の食を楽しむ

城めぐりの楽しみの一つが、その土地ならではのグルメです。

今回の長浜散策でも、歴史観光とあわせて食事を楽しみました。

びわこレストランROKU

昼食は、事前に予約していた「びわこレストランROKU」を訪れました。

長浜の歴史的な町並みを散策しながら立ち寄ることができるレストランです。

落ち着いた雰囲気のなかで食事を楽しむことができ、城めぐりの合間のランチにぴったりでした。

近江牛を使ったグルメ

滋賀県といえば、やはり近江牛が有名です。

近江牛は日本三大和牛の一つに数えられ、きめ細かな肉質と豊かな風味が特徴です。

今回の散策では、近江牛を使った軽食も楽しみました。

香ばしいせんべいの上に近江牛がのせられた一品で、長浜散策の途中に気軽に味わうことができました。

トップへ戻る