2026/10/13
院長の城めぐり vol.41(鳥羽城)
【三重県・鳥羽城】九鬼嘉隆が築いた水軍の城を歩く|石垣・本丸跡・天守跡と鳥羽湾を望む海城の歴史
三重県鳥羽市にある鳥羽城(とばじょう)を訪れました。
鳥羽城は、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉のもとで活躍した水軍の武将・九鬼嘉隆が築いた城です。
鳥羽湾に面した丘陵を利用して築かれた城で、海側に大手門を設けていたことから、全国的にも珍しい海城として知られています。
現在は城山公園として整備され、天守や御殿などの建物は残っていませんが、石垣や本丸跡などから往時の姿をしのぶことができます。
今回の城めぐりでは、特に石垣の積み方や段状に造成された斜面、本丸の構造に注目しながら、鳥羽城の歴史をたどりました。
鳥羽城の歴史|九鬼水軍の本拠地として築かれた海城
九鬼嘉隆による鳥羽城の築城
鳥羽城を築いたのは、志摩国を拠点に活躍した戦国武将・九鬼嘉隆(くき よしたか)です。
嘉隆は志摩の海上勢力をまとめ、織田信長に仕えた後、豊臣秀吉のもとでも水軍を率いて活躍しました。
鳥羽城は文禄3年(1594年)頃に築かれたと伝えられています。
それ以前の九鬼氏は、志摩国内の城を拠点としていましたが、鳥羽城の築城によって鳥羽湾を押さえる場所に本拠を構えることになりました。
この城の立地には、九鬼氏が水軍を率いた武将であったことが色濃く反映されています。
海に大手門を開いた珍しい城
鳥羽城の最大の特徴は、海側に大手門(大手水門)を設けていたことです。
一般的な城郭では陸上の主要道路に向けて大手門を構えることが多いのですが、鳥羽城は船による出入りを重視した構造でした。
築城当時は現在よりも海が城の近くまで入り込み、城の周囲には海水を利用した防御環境が形成されていました。
鳥羽城は「浮城」や「二色城」とも呼ばれ、海から見た姿と陸から見た姿が異なる城だったと伝わっています。
現在は埋め立てによって海岸線が変化していますが、古絵図を確認すると、当時の城と海の密接な関係がよく分かります。

九鬼嘉隆と関ヶ原の戦い
鳥羽城の歴史を語るうえで欠かせないのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いです。
この戦いで九鬼嘉隆は西軍に、息子の九鬼守隆は東軍に属しました。
親子が敵味方に分かれた背景には、戦国末期の複雑な政治情勢がありました。
関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、嘉隆は答志島へ逃れました。
守隆は父の助命を願い出ましたが、その知らせが届く前に嘉隆は自害したと伝えられています。
九鬼守隆はその後も鳥羽を治めましたが、寛永9年(1632年)に守隆が亡くなると、九鬼家では家督争いが発生しました。
その結果、九鬼氏は鳥羽を離れることになり、以後は内藤氏、土井氏、稲垣氏など、城主が交代しました。
江戸時代の鳥羽城は、鳥羽藩の政治と行政の中心として機能しました。
鳥羽城の縄張り|海と丘陵を利用した城郭構造
鳥羽城は、鳥羽湾に面した丘陵を利用して築かれた平山城です。
本丸を高所に配置し、その周囲や下方に二の丸、三の丸などの曲輪を設けることで、高低差を利用した城郭が形成されていました。
曲輪とは、城内で建物を配置したり、兵士を配置したりするために造成された区画のことです。
鳥羽城の場合、丘陵上の曲輪と海側の施設が結びついていた点が重要です。
城を防御するための施設であると同時に、水軍の拠点として船の運用や海上交通を意識した縄張りだったと考えられます。
現在の城山公園では、当時の曲輪の地形が一部残っているものの、廃城後の造成や道路整備などによって大きく改変された場所もあります。
したがって、現地の地形を観察するときには、築城当時の遺構と後世の整備を区別する必要があります。

鳥羽城の石垣|現地に残る築城技術を観察する
鳥羽城跡を歩いていると、随所で石垣を見ることができます。
天守や櫓などの建物が失われた城跡では、石垣は当時の城郭構造を読み解く重要な手がかりです。

石材の形と積み方に注目
今回撮影した石垣には、形や大きさが異なる石材を組み合わせた部分が見られました。
城郭の石垣には、自然石をあまり加工せずに積む「野面積み」、石材の接合面を加工する「打込接ぎ」、さらに精密に加工する「切込接ぎ」などがあります。
鳥羽城の石垣にも、比較的自然石の形を生かした部分が見られ、石材の組み合わせ方を観察する楽しさがありました。
ただし、石垣の築造年代は見た目だけでは判断できません。
鳥羽城は江戸時代にも改修されており、現存する石垣のすべてが九鬼嘉隆の築城当初のものとは限らないためです。


石垣の高さと城内の高低差
石垣を観察する際には、積み方だけでなく、その石垣がどの曲輪を支えているのかという視点も大切です。
鳥羽城では、丘陵上に本丸が位置するため、登城路を進むにつれて地形の高低差がはっきりと感じられます。
石垣によって造成された平坦地と、斜面の自然地形がどのように組み合わされているかを考えると、城の縄張りへの理解が深まります。
段状の斜面とジグザグ状の通路|鳥羽城で特に興味を持った場所
今回の城めぐりで、個人的に特に興味を引かれたのが、斜面に沿って石垣が何段にも重なる場所でした。

下から見上げると圧巻です。

写真を見ると、急斜面の途中に石垣による段差が設けられ、複数の平坦な部分が連続していることが分かります。
城郭を観察する立場からすると、非常に興味深い構造です。
城郭における段状地形の意味
一般的な山城や平山城では、斜面を削って「切岸」を造り、敵が簡単に登れないようにすることがあります。
また、斜面の途中に設けられた細長い曲輪は「帯曲輪」、比較的まとまった平坦地は「腰曲輪」などと呼ばれます。
こうした施設は、斜面の防御を補強したり、城内の移動や兵の配置に利用されたりしました。
さらに、登城路を折り曲げることで、侵入者が直進しにくい構造を造る場合もあります。
したがって、段差や折れ曲がった通路は、城郭の防御を考えるうえで重要な観察対象です。
鳥羽城の段状石垣は当時の防御施設なのか?
ただし、鳥羽城で見られるこの段状の石垣については、慎重に判断する必要があります。
現在の城山公園周辺には、廃城後の造成や公園整備によって形づくられた部分があります。
写真の斜面も、段状の石垣が連続していることは確認できますが、それだけで戦国時代の腰曲輪や防御用通路だったと断定することはできません。
また、通路が実際に築城当時からジグザグ状に設けられていたかどうかも、古絵図や発掘調査などによる裏付けが必要です。
むしろ興味深いのは、現在の地形と古絵図を比較しながら、どこまでが歴史的な遺構なのかを考えることです。
城めぐりでは、立派な石垣や天守台だけでなく、このような一見地味な地形にも注目することで、城の構造をより深く理解できます。
今回の鳥羽城でも、段状の斜面は特に記憶に残った場所の一つとなりました。
鳥羽城本丸跡|城の中心部に残る広大な平坦地
石垣や登城路を観察しながら高所へ進むと、広々とした本丸跡に到着します。

現在の本丸跡は芝生が広がる開放的な空間となっています。
しかし、江戸時代にはここに天守や本丸御殿など、城の中心的な施設が設けられていました。
現在の広場を見ただけでは当時の建物配置を想像するのは難しいのですが、現地の説明板や発掘調査の成果を確認することで、本丸の姿が少しずつ見えてきます。

鳥羽城の天守跡|三重天守が存在した記録
本丸跡には「鳥羽城の天守跡」と書かれた説明板が設置されています。

現地の説明によると、延宝8年(1680年)に作成された鳥羽城の財産目録には、三重の天守があったことを示す記録が残されています。
この記録などから、鳥羽城には三重天守が存在したと考えられています。
さらに、屋根の構造などから、望楼型天守だった可能性が指摘されています。
望楼型天守とは、下層の建物の上に小さな望楼を載せる形式の天守です。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて造られた天守に見られる特徴の一つです。
鳥羽城の天守は現存していませんが、当時は鳥羽湾を望む丘陵上にそびえ、海上からも目立つ存在だったと考えられます。
海に面した城に天守が建っていた姿を想像すると、鳥羽城の特徴がより鮮明になります。
本丸御殿跡|鳥羽藩の政治を支えた建物
本丸には天守だけでなく、城主の政務などに用いられた御殿も存在していました。
現地には「本丸御殿跡」の説明板が設置されています。

説明板によると、江戸時代の史料には本丸御殿の床の間や書院などについての記載が残されています。
書院とは、武家住宅や城郭御殿に見られる格式を備えた建築空間です。
城主が家臣と対面したり、重要な儀式を行ったりする場としても利用されました。
現在は建物が残っていないため、地表から御殿の全体像を確認することはできません。
しかし、発掘調査によって建物に関係すると考えられる石列などが確認されており、かつての本丸御殿の構造を考える手がかりとなっています。
鳥羽城は九鬼水軍の城として有名ですが、江戸時代には鳥羽藩の政治を担う近世城郭として発展していたことも重要です。
鳥羽城本丸跡の発掘調査|地下から明らかになった城の姿
本丸跡には、平成23〜25年(2011〜2013年)に実施された発掘調査について紹介する説明板があります。

発掘調査では、石垣や排水溝などの遺構が確認されました。
また、九鬼氏に関連すると考えられる瓦も出土しています。
こうした発掘成果は、文献だけでは分からなかった鳥羽城の構造を明らかにするうえで重要です。
特に注目したいのは、天守台の存在が推定される場所で石垣が確認されたことです。
現在の本丸跡は平坦な広場ですが、地下にはかつての建物や施設に関係する遺構が残されています。
城郭研究では、古絵図や文献の記録と発掘調査の成果を照らし合わせることで、当時の城の姿を復元していきます。
鳥羽城でも、そのような調査が進められていることが分かりました。
大井戸跡(雄井戸)|海城における水の確保
本丸跡では「大井戸跡(雄井戸)」の案内板も確認しました。

城郭を考えるうえで、水の確保は非常に重要です。
特に鳥羽城のように海に面した城では、海水とは別に生活用水や飲料水を確保する必要がありました。
籠城戦になれば、城内の井戸の存在は城の防御力を左右する要素にもなります。
鳥羽城の本丸跡では、発掘調査によって石積みの井戸が確認されています。
井戸の存在は、鳥羽城が軍事施設であるだけでなく、人々が生活し、政務を行う場所だったことを示しています。
石垣や天守跡に比べると目立たない遺構ですが、城の機能を理解するうえでは見逃せない場所です。
本丸から望む鳥羽湾|海城の立地を実感する
本丸周辺からは鳥羽湾を見渡すことができます。

青い海の向こうには大小の島々が連なり、現在も船が行き交う様子を見ることができます。
この景色は単に美しいだけでなく、鳥羽城の立地を理解するうえでも重要です。
鳥羽城が築かれた場所は、伊勢湾と熊野灘を結ぶ海上交通の要衝に近く、周辺海域の動きを把握しやすい位置にありました。
九鬼嘉隆がこの場所に城を築いた背景には、鳥羽湾を押さえる軍事的・交通上の重要性があったと考えられます。
現在の海岸線と築城当時の違い
現在の鳥羽城跡から海を眺めると、眼下には道路や建物、鉄道などが見えます。
しかし、築城当時は現在とは海岸線が異なり、海が城のすぐ近くまで迫っていました。
鳥羽城が「海城」と呼ばれる理由を理解するには、現在の景色だけでなく、古絵図に描かれた海岸線を重ねて考える必要があります。
かつて九鬼水軍の軍船が行き交った海を眺めながら、鳥羽城の役割を改めて実感しました。

城山公園に残る史跡と案内施設
鳥羽城跡は現在、城山公園として整備されています。
園内には城郭の歴史を紹介する説明板や案内標識が設けられており、城の構造を確認しながら散策できます。

また、園内には「♡TOBA」のモニュメントも設置されています。

城山公園は観光客にも親しまれる場所ですが、城めぐりの視点から見ると、近世城郭の遺構と現代の公園整備が重なった場所でもあります。
古い石垣や地形、説明板などを一つずつ確認しながら歩くことで、鳥羽城の歴史をより深く知ることができました。
鳥羽城を訪れて|九鬼水軍の歴史を今に伝える城跡
今回の鳥羽城めぐりでは、九鬼嘉隆が築いた海城の歴史と、現在に残る城郭の痕跡を確認することができました。
特に印象に残ったのは、次の三つです。
まず、海側に大手門を設けた、九鬼水軍の城ならではの縄張りです。
海上交通を重視した鳥羽城の構造は、一般的な城とは異なる特徴を持っています。
次に、石垣や段状の斜面に見られる城郭地形です。
現存する石垣の観察に加えて、後世の造成によって変化した地形を考えることも、城めぐりの興味深い部分でした。
そして、本丸跡の天守・御殿・井戸に関する発掘調査の成果です。
現在は建物が残っていなくても、文献や発掘調査によって城の構造が少しずつ明らかになっています。
鳥羽城は日本100名城・続日本100名城には選定されていませんが、水軍の歴史や海城の構造に興味がある方には、ぜひ訪れてほしい城跡です。
九鬼嘉隆の生涯や、鳥羽城が築かれた当時の海岸線を知ったうえで歩くと、城跡の見え方も大きく変わります。
次回は、九鬼嘉隆が最期を迎えた答志島など、九鬼氏に関連する史跡も訪ねてみたいと思います。
鳥羽城の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 城名 | 鳥羽城(とばじょう) |
| 別名 | 鳥羽の浮城、二色城 |
| 所在地 | 三重県鳥羽市鳥羽 |
| 築城者 | 九鬼嘉隆 |
| 築城時期 | 文禄3年(1594年)頃 |
| 城郭形式 | 平山城・海城 |
| 主な見どころ | 石垣、本丸跡、天守跡、本丸御殿跡、大井戸跡 |
| 文化財指定 | 三重県指定史跡 |
| 最寄り駅 | JR・近鉄鳥羽駅 |
| アクセス | 鳥羽駅から徒歩約10〜15分 |
グルメ編|鳥羽の海鮮料理と伊勢志摩の郷土料理
鳥羽城跡の見学とあわせて、鳥羽ならではのグルメも楽しみました。
鳥羽は伊勢志摩を代表する港町で、新鮮な魚介類が豊富に水揚げされる地域です。
今回は、伊勢海老や牡蠣、サザエなどの海鮮料理を中心に、伊勢うどんやスイーツも味わいました。
伊勢海老・牡蠣・サザエを堪能
鳥羽駅周辺の海鮮料理店では、水槽の中に伊勢海老や貝類が並んでいました。

伊勢海老のお刺身
まずいただいたのは、伊勢海老のお刺身です。

殻を使って豪華に盛り付けられた伊勢海老は、見た目にも迫力があります。
身はプリプリとした食感で、噛むほどに上品な甘みが広がりました。
伊勢志摩を訪れたら、一度は味わいたい料理です。
牡蠣
続いていただいたのは、大きな牡蠣です。
この時期の採れる「三倍体牡蠣」というそうです。

肉厚の身には海の旨味が凝縮されており、伊勢志摩らしい味覚を楽しめました。
サザエなどの貝料理
さらに、サザエをはじめとする貝類もいただきました。


サザエの独特の歯ごたえと磯の香りは、貝好きにはたまりません。
伊勢海老、牡蠣、サザエと、鳥羽の海の幸を一度に楽しむことができました。
伊勢志摩名物・伊勢うどん
鳥羽では、伊勢志摩地方の郷土料理「伊勢うどん」もいただきました。

伊勢うどんは、太くて柔らかい麺と、濃い色のたれが特徴です。
一般的なうどんのような強いコシはありませんが、独特のもちもちとした食感が楽しめます。
今回いただいたのは、牛肉とネギがたっぷりのった伊勢うどん。
柔らかい麺にたれが絡み、牛肉の旨味も加わった食べ応えのある一品でした。
カフェでケーキとアイスコーヒー
最後はカフェでひと休みしました。

しっとりとしたケーキと冷たいアイスコーヒーをいただきながら、ゆったりとした時間を過ごしました。
窓の外には鳥羽の街並みと海が広がり、港町ならではの景色を楽しむことができました。
城めぐりの後に、その土地ならではの料理を楽しむのも、旅の魅力の一つです。
近鉄特急が便利
名古屋方面から鳥羽に行くには、やはり近鉄特急がお勧めです。
近鉄特急の「しまかぜ」に乗車すると、記念にはがきを頂くことができます。


今回の鳥羽城は、九鬼水軍の歴史、海を利用した縄張り、現存する石垣、発掘調査によって明らかになった本丸の構造など、城郭として見どころの多い場所でした。
特に、海城としての特徴と、現在の地形に残る城郭の痕跡を観察できたことが、今回の城めぐりで最も印象に残りました。
そして最後には、鳥羽ならではの海鮮料理も楽しむことができました。歴史を学び、現地の遺構を観察し、その土地の食文化にも触れる、充実した鳥羽訪問となりました。



