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院長の城めぐり vol.39(諏訪原城、相良城、高天神城、横須賀城、掛川城)

城めぐり ~遠江の戦国史をたどる一日~諏訪原城から相良城、高天神城、横須賀城、そして掛川城へ

今回の城めぐりは静岡県へ。

一日の行程は、

諏訪原城
→ 相良城跡・牧之原市史料館
→ 高天神城
→ 横須賀城
→ 掛川城

というルートです。

最初は「静岡県内の城を効率よく巡ろう」と考えて組んだルートでしたが、実際に巡ってみると、この5つの城や城跡には一本の歴史が通っていました。

その中心となるのが、

武田氏と徳川氏による遠江争奪戦

です。

そこに今川氏、山内一豊、さらに時代を下って田沼意次まで登場します。

戦国時代から江戸時代へ。

一日の移動そのものが、遠江の歴史を時代を超えてたどる旅になりました。

まずは武田勝頼の前線基地・諏訪原城へ

今回最初に訪れたのは、島田市にある諏訪原城跡です。

国指定史跡であり、続日本100名城にも選ばれている山城です。

現在、天守や櫓は残っていません。

しかし諏訪原城の魅力は、建物ではなく地形そのものにあります。

城跡に足を踏み入れると、広大な曲輪、土塁、堀、馬出などが次々に現れます。

いかにも戦国時代の「戦うための城」という雰囲気です。

なぜこの場所に諏訪原城が築かれたのか

諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が家臣の馬場信春に命じて築いたとされています。

場所は牧之原台地の北端付近。

標高約212~220メートルの台地上にあり、本曲輪東側は急崖になっています。

当時の大井川も牧之原台地沿いを流れており、自然地形を利用した「後ろ堅固」の城でした。

逆に西側は東海道に接していたため、内堀や馬出、外堀で堅固に守られていました。

まさにこの諏訪原城跡入り口の道路が当時の東海道です。

実際に本曲輪まで歩くと、この立地の良さがよく分かります。

眼下には広い平野が広がり、大井川方面を見渡せます。

武田氏からすれば、ここを押さえることで駿河から遠江へ軍を進める際の重要な渡河地点を確保できます。

さらに、小夜の中山方面へ進めば掛川城。

菊川坂方面へ南下すれば高天神城。

つまり諏訪原城は、今回これから向かう高天神城攻略にも深く関係する位置に築かれていました。島田市の調査でも、武田勝頼が東遠江へ進出するうえで、この地点を押さえる重要性が指摘されています。

目の前に大井川と大井川鉄道を望むことができます。

城めぐり当日は曇りでしたので望めませんでしたが、晴れていれば、曇り空の所に富士山を望むことができます。

諏訪原城最大の見どころ「丸馬出」

諏訪原城を歩いていて特に面白いのが、馬出と堀です。

馬出とは、城門の外側に設けられた防御施設です。

敵が門へ一直線に押し寄せるのを防ぎ、城兵が反撃するための空間として機能しました。

諏訪原城では、三日月形の堀と組み合わされた丸馬出が有名です。

かつては「武田流築城術の代表例」として説明されることが多かった丸馬出ですが、近年の発掘調査では少し事情が複雑になっています。

城そのものは武田勝頼によって築かれましたが、現在見られる巨大な堀や丸馬出などには、徳川家康が城を奪った後に行った大規模改修が反映されている可能性が高いことが分かってきました。

ここは城好きには非常に興味深いところです。

「武田の城」を見ているつもりが、実はその上に「徳川の改修」が重なっている。

一つの城跡の中に、敵対した二つの勢力の築城技術が重なっているわけです。

また、2月に城めぐりで行った滝山城の角馬出(後北条氏の築城)との違いが興味深かったです。

諏訪原城ビジターセンターに模型がありました。

リアルさが伝わってきます。

薬医門(やくいもん)二の曲輪北馬出の門(にのくるわきたうまだしのもん)が復元されています。

発掘調査で確認された門の礎石から平成28年度に復元されたそうです。

角度によっては、門を額縁にして富士山を撮ることができるそうです。

残念ながら、当日は曇りで見えませんでした。

二の曲輪と本曲輪を歩く

広々とした二の曲輪を歩きます。

現在は草地ですが、周囲を土塁や堀に囲まれており、城の規模を体感できます。

そして本曲輪へ。

諏訪原城は山城といっても、急峻な山頂へひたすら登るタイプの城ではなく、牧之原台地の地形を巧みに利用した城です。

そのため、歩いていると「山登り」というより、

巨大な軍事施設の内部を歩いている

ような感覚があります。

武田氏から徳川氏へ

天正3年(1575年)。

長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた同じ年、諏訪原城は徳川家康によって攻略されました。

家康は城を牧野城と改称し、駿河に対する前線拠点として利用します。

その後も複数回にわたって普請が行われ、徳川氏の城として改修されました。最終的には天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴って廃城になったと考えられています。

武田勝頼が築城してから廃城まで、わずか十数年。

それでも現在までこれほど立派な遺構が残っているのですから、非常に見応えのある城でした。

牧之原らしい茶畑の景色と戦国山城が隣り合っているのも、この城ならではの風景です。

続いて相良へ ― 相良城本丸跡と牧之原市史料館

諏訪原城を後にして南へ。

次に向かったのは相良城跡です。

現在、相良城の天守や城門などは残っていません。

その本丸跡に建っているのが、牧之原市史料館です。

つまり、この史料館に入るということは、かつての相良城本丸に立っているということになります。史料館周辺には仙台河岸や二の丸の松など、城下町の面影を伝える場所も残っています。

相良城といえば田沼意次

相良城を語るうえで絶対に外せない人物が、

田沼意次

です。

史料館の前には、堂々とした田沼意次侯の像が立っています。

田沼意次という名前を学校の日本史で覚えている方も多いと思います。

昨年のNHK大河ドラマ「べらぼう」でも登場しましたね。

昨年はさぞかし、観覧客が多かったと思いますが、当日は私1人しかおらず、ゆっくりと観覧することができました。

江戸幕府第10代将軍・徳川家治の時代に幕政の中心人物となり、老中にまで上り詰めた人物です。

教科書では「田沼時代」「賄賂政治」という言葉とセットで登場することが多かった人物ですが、現在ではその評価も大きく変わってきています。

「商業を利用して国を豊かにする」という発想

江戸幕府の財政は、基本的に米を中心とした年貢収入に依存していました。

しかし経済の発展に伴って貨幣流通や商業活動が拡大すると、米中心の財政だけでは幕府を維持することが難しくなります。

田沼意次はそこで、

商業活動を活発にし、そこから税収を得る

という方向へ政策を進めました。

株仲間を公認し、商人から運上・冥加を徴収するなど、貨幣経済を積極的に政策に取り込もうとしました。

史料館では、田沼意次の貨幣政策に関連する南鐐二朱判、五匁銀、四文銭なども展示されています。

こうした展示を現地で見ると、単純な「賄賂政治家」というイメージとは違う一面が見えてきます。

相良を「城下町」にした田沼意次

意次は相良を領地として与えられると、この地を本格的な城下町へと整備しました。

相良城を築き、城を中心として町を整えていきます。

現在は史料館となっている場所が、その相良城本丸跡です。

今は街の中に静かに残る城跡ですが、

「ここに田沼意次の城があった」

と想像すると、見え方が変わってきます。

史料館には、田沼家ゆかりの古書画や什器、相良城図、田沼意次画像、意次寄進の品など200点以上の歴史資料があります。

戦国時代の山城だった諏訪原城から、江戸時代の城下町・相良へ。

一気に時代が進みました。

次は高天神城へ ― しかし今回は登城を断念

相良から次に向かったのは、続日本100名城の高天神城

高天神城は、今回の城めぐりの中でも歴史的には非常に重要な城です。

今川氏、徳川氏、武田氏が争奪戦を繰り広げた山城で、三方を断崖絶壁に囲まれた天然の要害でした。

ただし今回は、熊出没の恐れがあったため無理をせず、登城口までで引き返しました。

山城では、城を見ること以上に安全が最優先です。

入口にある想像図を見るだけでも、高天神城が尾根上に曲輪を配置した険しい山城であることがよく分かります。

「これは確かに難攻不落だっただろうな」

と想像しながら、今回は麓から城を眺めるにとどめました。

高天神城は、なぜそれほど重要だったのか

高天神城は、遠江東部を押さえるうえで極めて重要な城でした。

天正2年(1574年)、武田勝頼は高天神城を攻略。

父・信玄の時代にも落とせなかった城を勝頼が奪ったことは、大きな成果でした。

しかし翌1575年には長篠の戦いで武田軍が大敗します。

徳川家康はその後、高天神城の周囲に拠点を築き、補給路を断つ戦略をとりました。

その中で重要な役割を担った城が、次に訪れる横須賀城です。

今回は高天神城そのものを歩けませんでしたが、その歴史を知ったうえで横須賀城へ向かうことで、むしろ両城の関係がよく分かりました。

高天神城攻略のために築かれた横須賀城

次に訪れたのが横須賀城跡

ここで先ほどの高天神城と話が直接つながります。

横須賀城は天正6年(1578年)、徳川家康が家臣の大須賀康高に命じて築かせました。

目的ははっきりしています。

武田方の高天神城を攻略するため。

掛川市も横須賀城を「高天神城攻略の拠点」と位置づけています。高天神城落城後は遠州南部の中心的な城となり、明治維新まで約288年間、20代の城主が続きました。

横須賀城最大の特徴「玉石垣」

横須賀城跡へ来ると、まず目につくのが石垣です。

一般的な城の石垣とはずいぶん違います。

角張った大きな石ではなく、丸みを帯びた石がびっしりと積まれています。

これが横須賀城を代表する玉石垣です。

丸い石を積むため、一般的な野面積みとは印象がまったく異なります。

横須賀城といえばこの玉石垣。

写真を見ただけでも「横須賀城だ」と分かるほど特徴的です。

平地に広がる横須賀城

高天神城が急峻な山城なのに対して、横須賀城は比較的平坦な場所に広がっています。

本丸、二の丸、三の丸などを配した平山城です。

模型を見ると、現在の城跡からは想像しにくいほど大規模な城だったことが分かります。

曲輪を堀で区画し、随所に門や櫓を配置。

高天神城攻略の軍事拠点として築かれた後、長期間にわたって横須賀藩の中心として利用されたことから、次第に「戦うための城」から「藩を治める城」へと役割も変わっていったのでしょう。

高天神城から横須賀城へつながる歴史

ここで先ほどの高天神城を思い出します。

1578年、徳川家康は横須賀城を築城。

そして1581年、高天神城は落城します。

高天神城はそのまま廃城。

一方の横須賀城はその後も存続し、遠州南部の政治・軍事拠点となりました。

今回、高天神城は入口までしか行けませんでした。

しかし、

高天神城の入口を見る

その城を攻略するために造られた横須賀城へ行く

という順番になったことで、歴史的な因果関係は非常に分かりやすくなりました。

横須賀城の城内を歩く

現在の横須賀城には天守はありません。

しかし、本丸周辺へ向かって歩いていくと、地形や曲輪の配置から往時の城の姿を想像できます。

諏訪原城では巨大な堀と馬出。

横須賀城では玉石垣と広い曲輪。

同じ戦国時代の城でも、立地や役割によってまったく姿が違います。

それを同じ日に比較できるのが今回のルートの面白いところです。

最後はいよいよ掛川城

今回の城めぐりの最後は掛川城です。

山城を歩いた後に見る白亜の掛川城天守は、かなり印象が違います。

諏訪原城や高天神城が戦国時代の軍事拠点なら、掛川城にはその後の近世城郭としての姿が色濃く表れています。

掛川城の始まりは今川氏

掛川城は、駿河の今川氏が遠江支配を進める過程で、家臣の朝比奈氏によって築かれました。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川氏は衰退。

1568年、武田信玄が駿河へ侵攻すると、今川氏真は掛川城へ逃れました。

そこで掛川城を攻めたのが徳川家康です。

つまり掛川城もまた、

今川・武田・徳川

という今回何度も登場した大名たちの歴史と深く結びついています。

大手門から城内へ

まず立派な大手門。

大手門の周辺には番所もあります。

さらに興味深かったのが、

大手門の礎石を支えていた根固め石です。

発掘によって発見された遺構で、門の巨大さを想像させます。

建物だけでなく、その「基礎」にまで目を向けると、城郭建築のスケールがよく分かります。

四足門から天守を見上げる

今回の掛川城写真の中でも、特に好きな一枚です。

門をくぐった先に白い天守が見えます。

掛川城観光の象徴的な風景です。

四足門は正保城絵図などを参考に復元された門で、本丸へ通じる重要な入口でした。

天守へ近づくにつれて、次第にその姿が大きくなっていきます。

山内一豊と掛川城

掛川城を現在のような近世城郭へ大きく改修した人物が山内一豊です。

天正18年(1590年)、徳川家康が関東へ移封されると、山内一豊が掛川城主となりました。

一豊は城郭を大規模に改修し、天守を築いたとされています。

その後、関ヶ原の戦いを経て土佐一国を与えられ、高知へ移ります。

掛川城と高知城。

この二つの城が山内一豊によってつながっているのは面白いところです。

日本初の本格木造復元天守

現在の天守は平成6年(1994年)に復元されたものです。

掛川城が特別なのは、鉄筋コンクリートではなく、

日本初の本格木造復元天守

として再建されたことです。

木材の柱や梁に囲まれた内部へ入ると、その違いをすぐに感じます。

私はこのアングルから見た天守が大好きです。

特に印象的なのが、この急階段。

現代建築の階段とは全く違い、

「城の天守に登っている」

という感覚があります。

天守内部の防御設備

狭間は弓矢や鉄砲を撃つための開口部。

石落としは、建物に接近した敵を攻撃するための設備です。

諏訪原城では堀や馬出という「地形による防御」。

掛川城では狭間や石落としという「建築物による防御」。

一日の最後に見ることで、城の守り方の違いを比較できました。

巨大な鯱

天守内部で目を引くのが巨大な鯱です。

屋根の上にある時は大きさが分かりにくいのですが、地上で見るとかなりの迫力。

城郭建築の装飾であると同時に、火除けの意味も込められた象徴的な存在です。

伝統的な壁構造を見る

これも面白い展示でした。

小舞組みから荒壁、中塗り、土佐漆喰まで、壁がどのように作られるのかが断面で分かります。

木造復元天守というと外観ばかりに注目しがちですが、こうした内部構造を見ると、

昔ながらの建築技法を再現することの大変さ

がよく分かります。

天守最上階から掛川を一望

最上階へ上がると、掛川の街が一望できます。

東側の眺望です。

晴れていれば左の方に富士山を望むことができます。

南側の眺望です。

掛川駅や市街地を望むことができます。

普段、新幹線に乗車中に望むことができる掛川城を、逆側から見る。

趣深いですね。

朝に訪れた諏訪原城。

途中で立ち寄った相良。

高天神城。

横須賀城。

一日の行程を思い返しながら眺めると、

「この遠江という土地を、今川、武田、徳川が奪い合ったのだ」

ということが実感として伝わってきます。

掛川城最大級の見どころ ― 現存する御殿

そして掛川城では、天守以上に見逃せない場所があります。

掛川城御殿です。

この御殿は復元ではありません。

江戸時代後期に再建された建物が現在まで残っており、国の重要文化財に指定されています。

全国でも現存する城郭御殿は非常に少なく、掛川城御殿はその貴重な一つです。

昨年城めぐりした高知城も現存御殿がありました。

共に、山内一豊が関わる城だけに共通点が趣深いですね。

やはり、絢爛豪華ではなく、質素な造りでした。

しかし、質素ながらも城主の威厳を感じさせる風格が見られます。

城主の住居であり、藩の役所

御殿は単なる大名の住居ではありません。

城主の公邸。

藩政を行う役所。

公式行事の場。

これらすべてを兼ねていました。

室内へ入ると、天守とはまったく違う世界です。

畳敷きの部屋。

床の間。

違い棚。

襖。

部屋が次々に連なり、役職ごとに使う場所が分けられています。

足軽目付

ここは「足軽目付」。

足軽などを監察する役職が使った部屋です。

徒目付

こちらは「徒目付」。

藩内の監察などに携わった役人の部屋。

大目付

さらに「大目付」。

より重要な監察・警備などを担当する役職です。

こうして部屋を順番に歩いていくと、

江戸時代の藩庁そのものを歩いている

ような感覚になります。

御殿の広間

障子を開けると庭の緑が見えます。

木造の柱。

畳。

障子。

外の庭。

現代建築とは全く違う、日本建築特有の空間です。

中庭から御殿を眺める

中庭側へ回ると、また違った雰囲気になります。

幕末に再建された建物が、明治、大正、昭和、平成、令和と時代を超えて現在まで残っている。

復元天守とはまた違う、

「本物が残っている」という重み

を感じる場所でした。

今回の城めぐりを振り返って

今回巡ったのは、

諏訪原城
→ 相良城跡・牧之原市史料館
→ 高天神城入口
→ 横須賀城
→ 掛川城

です。

特に印象的だったのは、城ごとに役割が全く違ったこと。

諏訪原城は、武田勝頼が遠江攻略のために築いた前線基地。

相良城は、田沼意次の時代に城下町政治の中心となった城。

高天神城は、武田と徳川が争奪戦を繰り広げた難攻不落の山城。

横須賀城は、その高天神城を攻略するために徳川家康が築かせた城。

掛川城は、戦国の城から近世城郭へと発展し、現在では木造復元天守と現存御殿の両方を楽しめる城。

同じ「城」と呼ばれていても、その役割も姿も全く違います。

帰路の三方原PAで、また武田と徳川

掛川城を後にして東名高速で帰路へ。

途中、三方原パーキングエリアへ立ち寄りました。

そこにあったのが、

「三方ヶ原合戦」

の顔出しパネル。

徳川軍と武田軍が並んでいます。

朝からずっと武田と徳川の攻防を追ってきた一日の最後に、まさかPAでもこの二人に出会うとは。

なかなか出来すぎた締めくくりでした。

城を巡ると、歴史が一本につながる

今回の城めぐりで最も面白かったのは、

一つ一つの城の歴史が、次に訪れる城へつながっていったこと

です。

諏訪原城を見れば、武田勝頼がなぜ遠江へ進みたかったのかが分かる。

高天神城の入口に立てば、なぜこの山城を巡って武田と徳川が争ったのかが分かる。

横須賀城へ行けば、家康がどうやって高天神城を包囲しようとしたのかが分かる。

そして掛川城まで来ると、今川・徳川・山内一豊を経て「戦う城」が「治める城」へ変化していく様子まで見えてきます。

途中に相良城を挟むことで、さらに江戸時代の田沼意次の政治まで歴史が伸びていきました。

今回は高天神城だけは安全を優先して登城しませんでしたが、それも含めて実際の城めぐりです。

無理をしないことも、城めぐりを長く楽しむためには大切。

それでも、

諏訪原城から掛川城まで、遠江の歴史を「点」ではなく「線」でたどる。

非常に充実した一日になりました。

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