こんにちは
一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニックです
院長の城めぐりをご紹介します
今回訪れた城は東京都千代田区にある江戸城です
「江戸」という地名は、平安時代末期にこの地を本拠地とした江戸重継から名付けられたそうです
縄張りの形式は輪郭式平山城もしくは平城、江戸初期に建築された天守の構成は連立式、天守は層塔型5重5階地下1階だったそうです、現在天守閣はありません
1457年(康正3年)扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して築城しました
その後、道灌が上杉氏に殺害され、以降は上杉氏が所有しておりました
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻め後、秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、駿府から江戸に入封しました
この時の江戸城は小規模な城で、築城から時を経て荒廃が進んでいたため、家康は改修を余儀なくされました
元々あった本丸や二ノ丸に加え、西ノ丸や三ノ丸、吹上、北ノ丸を増築し、道三堀や平川を江戸前島中央部へ移設し、それに伴う残土を利用して周辺の埋め立てを行い、城下町造りも始めました
1603年(慶長8年)家康が江戸開府して以降は天下普請により江戸城の拡張が進められました
1607年(慶長12年)大規模な縄張りや石垣、櫓、天守建築を進め、慶長度天守が完成しました
1622年(元和8年)本丸の拡張工事を行い、それに併せて天守台と御殿を修築し、元和度天守が完成しました
1637年(寛永14年)天守台と御殿をさらに修築し、翌年に寛永度天守が完成しました
1657年(明暦3年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失し、天守台は再建されたものの、その後、天守閣は再建されませんでした
1855年(安政2年)安政大地震でも石垣、櫓、門などが多大な被害を受けました
1868年(明治元年)幕府は江戸城を明治政府軍に明け渡し、10月13日に東京城(とうけいじょう)と改名されました
1869年(明治2年)東京遷都により、皇城と称されました
以後、城門や石垣、櫓、土塀など新政府が防衛上必要とみなしたもの以外の建物は江戸幕府の象徴となるため破却されました
また、関東大震災や戦災によっても多くの建物が破壊されました
1888年(明治21年) 明治宮殿が完成し、宮城(きゅうじょう)と称されました
1948年(昭和23年) 皇居と改称されました
1967年(昭和42年)大手門が木造で復元されました
1968年(昭和43年)明治宮殿跡地に新宮殿が建築されました
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定されました
私は100名城めぐりも趣味ですので、到着後早速スタンプをゲットしました
旅行記を紹介します
電車と新幹線で東京駅に移動し、東京駅からは徒歩で移動しました(新幹線から見えた富士山)
東京駅構内は人で一杯でしたが、地下から丸の内側に向かい地上に出るとこんな雰囲気で、人通りが少なかったです
さらに進むと、皇居前広場が見えてきました
最寄りの和田倉門より入城しました
和田倉橋を横に見ながら進みます、この橋は和田倉門の警護の目的で造られたもので、現在のものは1953年に建造された三代目の橋です
和田倉噴水公園にある休憩所内に100名城スタンプがありますので、立ち寄りゲットしました
手前から桜田巽櫓、桔梗門、富士見櫓です
桜田巽櫓は江戸時代から現存する最大の二重櫓で、大きな「石落とし」が特徴的です
桔梗門は大手門が本城への正門として大名などが登城する為に使用していたのに対して、旗本や商人たちが通行する虎口として使用していたそうです、現在、宮中参賀などの行事以外は通行できません
富士見櫓は1606年(慶長11年)に三層櫓で完成しましたが、明暦の大火によって延焼し、再建した後は天守閣の代用として使用されました
皇居外苑の広場です、遠くに見えるビル群の数を考えると、広大な広場であることが分かります
左奥に坂下門が見えます、この門では1862年(文明2年)井伊直弼の開国政策を継承した老中安藤信正が水戸藩浪士などに襲撃された「坂下門外の変」が起きました

皇居東御苑の入り口である「大手門」は江戸城と城下町をつなぐ正門であり、大手門の高麗門(一ノ門)、桝形広場、渡櫓門(二ノ門)の並びは、江戸時代当時の形態を残しています
枡形広場には鯱が鎮座していました
大手門から少し進むと、同心番所に着きます、同心(幕府の下級武士)たちの詰所です、ここは本丸大手門を警備する番所で、江戸時代後期のものと思われる建物が修理復元されて残っています、御三家以外の大名などは皆ここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登ったそうです
さらに少し進むと、百人番所に着きます、この建物は江戸時代から残るものです、本丸の入口にあたる門のため、江戸城最大の検問所の役割を果たしました
鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の4組が交代で詰めており、各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたそうです
同心100人ずつで警護していたので、百人番所と呼ばれるようになったそうです
次に白鳥濠沿いに進み本丸に向かいました
白鳥濠より見える本丸の石垣です
本丸に向かう途中、東側は西の丸庭園となっています、大部分は雑木林でした
高低差約10メートルの汐見坂を登り本丸に向かいます
汐見坂門より本丸に入ります
早速天守台に向かいました、現存天守台は高さ11m、東西約41m、南北約45mの大きさで、御影石(花崗岩)でできているそうです
天守台に登ると、東京のビル群が一望できます
天守台に設置してある本丸御殿の案内板です、広大さがこれだけでも分かりますが
この景色で見ると、ビル群の大きさと比べ、とてつもない広さだったと想像されます
反対側の富士見櫓方面からの本丸広場です、天守台(赤〇)がはるか遠くに見えます
本丸広場の端っこに「松の大廊下跡」の案内板がありました、もちろん建物は何も残っていないので、この辺りで浅野内匠頭が吉良上野介の刃傷沙汰に及んだことを想像するしかありません
松の大廊下跡近くの少し高台になっている場所に「富士見多聞」と呼ばれる多聞櫓があります、これも江戸時代からの現存遺構で、鉄砲や弓矢が納められており、戦時における備えの役割を果たしたそうです

天守閣の復元模型です、模型だけでも当時の壮大さが想像できました
最後に、本丸から別路で下り、百人番所近くにある中の門に着きました
この石垣は江戸城の中でも最大級となる約36トンの巨石で築かれており、高さ6mにも及ぶ巨大な石垣で、丁寧に加工された隙間のない見事な「切込接ぎ・布積み」の技法で積まれています
今回の旅は、徳川江戸幕府の全国支配による権力の粋を尽くした日本随一の城郭跡を訪れることで、当時の江戸幕府の栄華を垣間見ることができ、有意義かつ大満足な城めぐりでした