こんにちは
一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニックです
院長の城めぐりをご紹介します
今回訪れた城は愛知県岡崎市にある岡崎城です
徳川家康出生の城として有名です
梯郭式平山城、複合連結式望楼型3重3階の天守を持ち、別名「龍城」と呼ばれています
15世紀中頃、今の場所と異なる明大寺の地に西郷稠頼(つぎより)が居館を築いたのが始まりとされています、当時は「平岩城」と呼ばれていました
さらに、菅生川北岸の龍頭山の先端に、北方に対する砦を築きました(ここが今の岡崎城の位置)
1524年(大永4年)、3代目当主の西郷信貞の代になり、松平清康(徳川家康の祖父)の家臣大久保忠茂らがこの地を攻め落城させ、清康は西郷信貞に岡崎城を明け渡させ、本拠を安城から岡崎へ移しました
1531年(享禄4年)頃、清康は明大寺より龍頭山の砦へと本拠を移し、本格的な岡崎城を構えました
1542年(天文11年)、城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれました
1549年(天文18年)、家康の父広忠が死去すると、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれました
1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が死去すると、松平元康(後の家康)は岡崎城を取り戻し、今川家から独立し、以後三河国を治めました
1570年(元亀元年)、家康は本拠を浜松城に移した際、岡崎城は子の松平信康を城主としましたが、信康は謀反の疑いをかけられて自刃し、以後は重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めました
1590年(天正18年)、家康が関東に移封となると、豊臣家臣の田中吉政が入封しました
豊臣大名である田中吉政は、家康に対する抑えとして、城を拡張し、強固な石垣や城壁などを築き近世城郭に整備しました
また、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、城下町の整備も進め、現在の岡崎城と岡崎の町の原型を造りました
江戸時代になると、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、石高こそ5万石前後と少ないですが、大名は岡崎城主になることを誇りに思っていたそうです
従って、譜代大名である本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)が代々城主を務めました
最後は1869年(明治2年)に本多忠直が城主となり、明治維新を迎えます
1873年(明治6年)、廃城令により、天守や大手門、東隅櫓、土塀以下の建物が撤去されました
1959年(昭和34年)、3層5階建ての模擬天守が復元されました
2006年(平成29年)4月6日、日本100名城(45番)に選定されました
私は100名城めぐりも趣味ですので、到着後早速スタンプをゲットしました
2010年(平成22年)3月、東隅櫓と土塀が復元されました
旅行記を紹介します
電車で最寄りの東岡崎駅に移動し、駅よりは徒歩で向かいました
歩いて10分弱で菅生川(乙川)越しに岡崎城の天守閣がお目見えです
桜の時期とあって、河川敷は桜祭りで盛況でした
川にかかる橋を渡ると、復元された東隅櫓や土塀を見ることができます
岡崎公園の入り口の大手門より入城しました
公園の広場となっている二の丸跡を過ぎると天守閣が近づいてきます
上の画像手前は空堀となっており、「西海堀」と呼ばれています、これは創築者の西郷頼嗣(清海入道)の名から呼ばれており、 本丸北防衛のために設けられました
かなり深い堀となっております、その堀沿いを歩き、天守閣に隣接する龍城神社を過ぎると、天守閣に到着です
天守閣の目の前には家康公遺言碑があります
「将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようであれば、政権は他に移るべきである、政権が他家に移っても民が幸せならば、本意であり恨みに思うことはない」という意味の文章が刻まれています
ちなみに院長はこんなアングルの天守閣と石垣が好きです
天守閣の中は史料館となっており、岡崎城の成り立ちをはじめ、武士と庶民のくらし、そこから花開く岡崎の文化や伝統産業などが紹介されていました、天守閣最上階からは岡崎市内が一望できます
龍城堀沿いを歩くと「神橋」を望むことができます、季節柄桜がきれいでした🌸
二の丸広場には「三河武士のやかた家康館」があり、岡崎城と徳川家の歴史などが紹介されていました、大河ドラマで使われた家康公の鎧も展示されていました
そして、岡崎といえば「八丁味噌」ですね!!
田楽三昧の定食を頂きました
その後、足を延ばして「ダカフェ本店」に行き、美味しいスイーツを頂きました
イチゴとアイスがとてもマッチしており、甘いものずくしでした
ダカフェの社長の大山皓生様は今年の実践塾名古屋第3回でご講演を頂く方です、まずはお店の雰囲気とスイーツを楽しみ、予習させて頂きました
今回の旅は岡崎と徳川家康の歴史だけでなく、きれいな桜を観賞したり、地元岡崎の八丁味噌やスイーツまで頂くことができ、有意義かつ大満足な城めぐりでした