こんにちは

一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニックです

院長の城めぐりをご紹介します

今回訪れた城は岐阜県大垣市にある墨俣城です

永禄9年(1566年)、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられるお城です

墨俣は中世の木曽川が長良川と合流する地点で、古くから交通・軍事上の要衝の地でした

古代から墨俣には船橋(ふなばし:船を並べて板を敷いて造る橋)がかかっており、中世には1181年(治承5年)の「源平墨俣合戦」や1221年(承久3年)に勃発した「承久の乱」など、墨俣を中心に起こった大規模な合戦が複数あります

そのため、織田信長の美濃攻略にも重要な地であり、その足がかりとして築城されることになりました

先に佐久間信盛や柴田勝家が築城を試みましたが、川の中州に位置することと斎藤勢の攻撃により、資材の搬送が困難となり、なかなか築城することができませんでした

「墨俣」の地名の由来が、多くの川の支流が流れ込んで「洲の股」のようだったことからも、築城が困難な地であることが分かります

そこで、木下藤吉郎は蜂須賀小六らと協力し、木曽川の上流の木を伐採して集め、それを筏として組み、墨俣の近くで陸揚げし、柵や建物のパーツを作り、それを墨俣に運んで、砦の柵や建物として迅速に建築したそうです

現地に着くと、まずは木柵を設置して兵を2手に分け、一手が部品を組み立てている間、別の一手が敵襲から味方を保守しました

現代でいう「プレハブ工法」と「分担作業」が短期間での築城を可能にしました

この作業は斎藤勢にも察知されていましたが、織田信長の伊勢攻めのための資材集めという噂を間者に流させて、斎藤勢を欺いたとのことです

そのため、斎藤勢から見れば、いきなり目の前に城が現れることとなり、墨俣一夜城の由来となりました

天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で水没し、木曽川の流れが変わることにより、墨俣は要衝の地としての役割を終えることとなったため、以後再建されることはなく、廃城となったそうです

そのため、墨俣城が築かれたとされる墨俣の地は、河川改修が進んだ結果、城の痕跡の大半が川底に沈み、遺構は残されていません

平成3年4月、その城跡に当時の砦のような城ではなく、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が造られました

 

旅行記を紹介します

自動車でクリニックより移動し約45分で着きました

近隣にある「さい川さくら公園」の駐車場に自動車を止め、徒歩約7分

犀川(さいかわ)にかかる「太閤出世橋」に着きました、天守閣も一望できます

さらに橋を進み、天守閣前には「木下藤吉郎秀吉像」がお目見えです

そして、歴史資料館となっている天守閣に入ります

5階建ての天守閣で、1~4階は資料館となっており、墨俣の歴史や墨俣一夜城築城の流れなどを学ぶことができます

さらに5階に進むと、墨俣周辺が一望できます

犀川や長良川を望むことができ、川に囲まれた地であることが分かりやすく、当時の築城の大変さをうかがい知ることができました

北側は岐阜市街を望むことができます

遠くには金華山に建つ「岐阜城」を確認できます、改めて美濃攻めの拠点であることが分かります

10月中旬に訪問したため、やや雨交じりの肌寒い日でしたが、近場である「墨俣城」の歴史に触れることができました

また、墨俣の地は「美濃路」の宿場町の一つであり、当院に近い「起宿」の次の宿場町であることも知りました

しかも朝鮮通信使や琉球王使も通行し、この墨俣の地で宿をとったり、休息していたそうです

今回は墨俣城を訪れることにより、墨俣の歴史を深めることができ、有意義な城めぐりでした