2026/11/2
院長の城めぐり vol.44(郡山城)
【奈良県・大和郡山城】筒井順慶が築き豊臣秀長が拡張した城|天守台と逆さ地蔵・追手門・箱本十三町の城下町
今回は、奈良県大和郡山市にある郡山城(こおりやまじょう)を訪ねました。
昨年も訪れていますが、今回は大河ドラマで盛り上がっているとのことで、再度訪れてみました。
郡山城は、戦国大名の筒井順慶(つつい じゅんけい)が築き、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみ ひでなが)が大和・紀伊・和泉の約100万石の本拠として大きく拡張した城です。
江戸時代には譜代大名が城主を務め、最後は柳沢家が6代、約150年にわたって治めました。
今回は城を一周して本丸や天守台を見て回り、柳沢文庫、追手門の櫓、そして展示「秀長と郡山のあゆみ」を見学しました。
その後は城下町へ出て、秀長の菩提寺である春岳院(しゅんがくいん)、紺屋町(こんやまち)、大織冠鎌足神社(たいしょくかんかまたりじんじゃ)、秀長の墓所・大納言塚(だいなごんづか)をめぐりました。
今回特に注目したのは、「豊臣時代の郡山城」と、秀長がつくった城下町の仕組みです。

城跡の入口近くにある案内マップです。城と城下町の位置関係がよく分かります。
郡山城の歴史|筒井順慶の築城から柳沢家150年まで
郡山城は、天正8年(1580年)ごろに筒井順慶が築城を始め、天正13年(1585年)に入城した豊臣秀長が大規模に拡張し、文禄4年(1595年)以降に増田長盛(ました ながもり)が外堀を整えて完成した城です。
関ヶ原の戦いの後は廃城同然となりましたが、江戸時代に再び城下町とともに整えられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで郡山藩の城として使われました。
ここからは、時代を追って郡山城の歩みを見ていきます。
なぜ郡山に城が築かれたのか
郡山城は、奈良盆地の西側に延びる西ノ京丘陵の南端に築かれています。
時代に建設された平城京の一番南端の九条大路(羅生門があった通り)の位置にあたります。
高さ20メートルほどの小高い丘陵の地形を活かし、主要な曲輪(くるわ:石垣や土塁で区切られた区画)や武家屋敷を丘の上に、町人地や寺社からなる城下町を低地に配した平山城(ひらやまじろ)です。
天守台に登ると、奈良盆地が一望できます。盆地の中ほどに位置し、奈良の町にも近いこの場所は、大和一国を治める拠点として都合がよかったのだと感じました。
筒井順慶の築城|大和国でただ一つ残された城
郡山城の始まりは、大和の戦国大名・筒井順慶にさかのぼります。
筒井氏はもともと、郡山の南東にある筒井城(つついじょう)を本拠としていました。展示によると、筒井城ではこれまでに20回近い発掘調査が行われ、幅12メートル以上、深さ2メートルにも及ぶ堀や大型の石組み井戸、海外から輸入された青磁などが見つかっているそうです。
織田信長に従った順慶は、天正8年(1580年)ごろ、本拠を郡山に移して築城を始めました。このとき大和国内の城の多くは信長の命で破却され、郡山城は大和国で唯一の城郭として残されたとされています。
天正11年(1583年)ごろには天守も築かれたと伝えられています。
順慶は天正12年(1584年)に亡くなり、跡を継いだ養子の筒井定次(さだつぐ)は、翌年、伊賀へ移されました。
豊臣秀長の入城|大和・紀伊・和泉100万石の本拠へ
天正13年(1585年)、筒井氏に代わって郡山城に入ったのが、豊臣秀吉の弟・秀長です。
秀長は尾張国の生まれで、兄・秀吉とともに織田信長に仕え、数々の戦で手柄を立てました。本能寺の変の後は、秀吉の天下取りを支える右腕として歩んでいます。
秀吉が関白となった天正13年、秀長は大和・紀伊・和泉の約100万石を与えられ、郡山城主となりました。天正15年(1587年)には従二位・権大納言に任じられ、「大和大納言(やまとだいなごん)」と呼ばれるようになります。
秀長は郡山城を豊臣政権の拠点の一つとして大改修し、城の骨格をつくったと考えられています。
ただ、奈良盆地には石垣に向く石材が乏しく、しかも工事を急いだため、寺院の礎石や石塔、石仏、墓石までもが石垣に使われました。これが、後で紹介する「逆さ地蔵」などの転用石です。
城門などの建物も、各地から移されたものがあったと伝えられています。
令和4年(2022年)に国の史跡に指定される際にも、豊臣秀長が入城して畿内統治の拠点として大規模に整備した城であることが評価されています。
秀長の城下町づくり|箱本十三町と商業の保護
秀長は城だけでなく、城下町づくりにも力を注ぎました。
展示の説明によると、秀長は奈良での商売を禁止するなどして、奈良の既得権益に大きな打撃を与えました。一方で、郡山での商業の独占を認め、奈良や堺などの有力な経済都市から商人を郡山に集めました。
移り住んだ商人には地子(じし:土地にかかる税)の免除という特権も与えられ、同業者が一区画に集まる町割が生まれました。紺屋町、豆腐町、堺町といった町名は、その名残です。
そして、城下町の町人地では「箱本(はこもと)」と呼ばれる独自の自治制度が生まれました。
地子免除などの特権を証明する朱印状を納めた「御朱印箱」を、町々が月交代の当番で保管し、その当番の町が治安・防火・伝馬(公用の人馬の手配)などの町政を担ったのです。この仕組みを担った町々が「箱本十三町」です。
この制度は秀長が亡くなった後も受け継がれ、江戸時代を通じて郡山の経済発展を支える礎となりました。
秀長の死と増田長盛|外堀による総構えの完成
天正19年(1591年)1月22日、秀長は郡山城内で亡くなりました。51歳でした。
跡を継いだ養子の豊臣秀保(ひでやす)も文禄4年(1595年)に早世し、同年、豊臣政権の五奉行の一人である増田長盛が20万石で郡山城に入りました。
長盛は城と城下町全体を堀で囲む外堀の普請を行い、郡山城は「総構え(そうがまえ)」の城として完成します。総構えとは、城だけでなく城下町まで堀や土塁で囲い込む造りのことです。
外堀の総延長は5キロ以上に及んだといわれます。
関ヶ原の戦いと大坂の陣|城の主が去った時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、増田長盛は西軍に属しました。戦後、長盛は所領を没収され、郡山城は徳川方に明け渡されました。
城の建物は伏見城などに移されたと伝えられています。
慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣の際には、城番を務めていた筒井定慶(じょうけい)のもとを大坂方が攻め、城下が焼かれたと伝えられています。
江戸時代の郡山藩|譜代大名が守った畿内の要地
大坂の陣の後、郡山城には徳川家にとって信頼の厚い譜代大名が置かれるようになりました。
元和元年(1615年)に水野勝成(みずの かつなり)が6万石で入り、城の復興が進みます。その後、元和5年(1619年)に松平忠明(ただあきら)が12万石で入り、寛永16年(1639年)からは本多家、延宝7年(1679年)からは松平(藤井)家、貞享2年(1685年)から再び本多家が城主を務めました。
京都・大坂にも近い畿内の要地であったため、短い期間で城主が交代しながらも、一貫して譜代大名が置かれ続けたのが郡山の特徴です。
柳沢家の6代150年|金魚の町の始まり
享保9年(1724年)、甲斐国甲府から柳沢吉里(やなぎさわ よしさと)が15万1千石で郡山に移ってきました。吉里は、5代将軍・徳川綱吉の側用人として知られる柳沢吉保の子です。
以後、柳沢家は吉里、信鴻(のぶとき)、保光(やすみつ)、保泰(やすひろ)、保興(やすおき)、保申(やすのぶ)の6代にわたって郡山を治め、明治4年(1871年)の廃藩置県まで、約150年続きました。
大和郡山といえば金魚の町として知られていますが、その始まりは、吉里が甲府から移ってきた際に持ち込まれた金魚だと伝えられています。
幕末には藩士の副業として金魚の養殖が広まり、最後の藩主・柳沢保申が奨励したといわれます。溜池が多く、餌となる微生物が豊富だったことも、全国有数の産地へと育った理由とされています。ちなみに、地元の方は、金魚を養殖する池のことを「金魚田」と呼んでいます。
明治の廃城と現在|石垣が伝える城の姿
明治時代を迎えると郡山城は廃城となり、すべての建物が取り壊されました。
それでも石垣の大部分は残り、現在も本丸を中心に180面を超える石垣が残っています。展示では、江戸時代を通じて整備され続けたこれらの石垣こそが、城跡の本質的な価値だと紹介されていました。
昭和58年(1983年)に追手門、翌59年に追手東隅櫓(おうてひがしすみやぐら)と多聞櫓、昭和62年(1987年)に追手向櫓(おうてむかいやぐら)が、市民の運動などによって復元されました。
平成29年(2017年)には天守台の展望施設が完成し、同じ年に「続日本100名城」にも選ばれています。令和4年(2022年)には国の史跡に指定されました。
郡山城の縄張り|三重の堀と丘陵を活かした平山城
郡山城の縄張り(なわばり:城の設計・配置)は、内堀・中堀・外堀の三重の堀が巡る「総構え」の構造です。
城のほぼ中心に、内堀に囲まれた本丸があり、その周りを毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)、二ノ丸などの曲輪が囲み、さらに中堀で囲んでいます。
最も外側を囲む外堀は、増田長盛が完成させたと伝わる長大な堀で、城下町まで取り込んでいました。
本丸は南北約150メートル、東西約70メートルの規模で、北端の天守台がある一画が少し西にずれて接続する形です。本丸は高さ10〜14メートルの高石垣と、幅10〜30メートルの内堀に囲まれていました。
本丸内には月見櫓、白沢門、竹林門などの建物が建ち、それぞれが多聞櫓(たもんやぐら:長屋のような細長い櫓)で連結されていたそうです。
本丸へは二つの橋が架けられていて、東側の毘沙門曲輪から極楽橋(ごくらくばし)を経て入るのが正規のルートでした。南側の竹林橋は、本来は裏門の扱いだったといいます。
郡山城の石垣と堀|城を一周して見た遺構
まずは城の周りをぐるりと歩きながら、石垣と堀を見て回りました。

城のあちこちで、大小の自然石を積み上げた野面積み(のづらづみ)の石垣を見ることができます。野面積みとは、ほとんど加工していない自然の石をそのまま積む技法です。

高石垣の上から見下ろした内堀です。堀の幅と石垣の高さを合わせると、攻め手にとってかなりの障害だったことが実感できます。
本丸の石垣を近くで見ると、丸みを帯びた石と角ばった石が混ざり合っています。その間に小さな間詰石(まづめいし:すき間を埋める石)が詰められていました。
郡山城の天守台|発掘調査で確かめられた天守
本丸の北端にある天守台は、平成25年から28年にかけて石垣の修理と発掘調査が行われ、平成29年(2017年)に展望施設として整備されました。

本丸から見た天守台です。石垣の上に展望デッキが設けられていて、誰でも登ることができます。
発掘調査では天守の礎石列が見つかり、郡山城に天守が実在したことが確かめられました。天守の規模は7間×8間と考えられています。
また、郡山城では初めて金箔瓦も見つかりました。菊の文様がある小型の瓦だそうです。

天守台の上では、礎石とその下の根石(ねいし:礎石を支えるための石)の様子を見ることができました。根石には転用材が多く使われていて、梵字を刻んだ石塔も見つかっているそうです。

天守台からの眺めは開放的で、本丸の広がりや堀、その先の市街地まで見渡せます。

天守台の石垣を外側から見ると、その大きさに圧倒されます。

天守台の隅は、長方形の石の長い辺と短い辺を交互に組む算木積み(さんぎづみ)という技法で積まれています。
ただ説明板によると、天守台の算木積みはまだ完成形には至らない初期の段階のものだそうです。上の方ほど石材が小さくなるのも特徴です。
一方、本丸の月見櫓下の隅は四角い割石を使って隅脇石を配した、より新しく精巧な算木積みになっているとのことです。
説明板には、天守台と本丸の石垣では築かれた時期が違うものがあり、何度かの改修を経て石垣全体が完成したと書かれていました。石の積み方の違いを見比べると、城の歴史の積み重なりが感じられます。
郡山城の逆さ地蔵と転用石|石材不足が生んだ光景
私が本丸でもっとも足が止まったのが、石垣に組み込まれた転用石(てんようせき)です。

天守台の北面の石垣には、「さかさ地蔵」と呼ばれる地蔵が築石として積まれています。頭を奥にして、うつむきに積み込まれているため、この名で呼ばれています。
仏身は約90センチで、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永3年(1523年)の刻銘があるそうです。

石垣のすき間をのぞくと、確かに地蔵が逆さまに組み込まれているのが見えました。今でもお供えがされていて、信仰が続いていることが分かります。
郡山城の石垣には、寺院の礎石や石塔、石臼など、さまざまな転用石材が使われています。石垣の表面だけでも750基あまりが確認されているそうです。
本丸の説明板によると、本丸東面の石垣の最下部には、南北約20メートル、高さ約2メートルの範囲に約60石もの四角い石材が集中して積まれています。すべて墓石や地蔵などの転用石で、全国的にみてもこれほど集中して積まれた例はないそうです。
石材が乏しいうえに築城を急いだという事情があったとはいえ、信仰の対象だったものまで使う、初期の城づくりのすさまじさが伝わってきました。
こうした石仏や墓石の霊を慰めるため、毎年お城まつりの初日に数珠くり法要が営まれているそうです。
柳沢神社と柳沢文庫|柳沢家の記憶が残る本丸

本丸には、柳沢家ゆかりの柳沢神社が鎮座しています。拝殿には大きな金魚の絵が掲げられていて、金魚の町・大和郡山らしさを感じました。

本丸と毘沙門曲輪を結ぶ朱色の極楽橋です。説明板にあったとおり、こちらが本丸への正規のルートでした。
続いて柳沢文庫へ向かいました。柳沢文庫は、柳沢家に伝わる資料などを所蔵し、郡山の歴史を伝えている施設です。

郡山城の追手門と櫓|桐紋が掲げられた復元の門
柳沢文庫から、復元された追手門と櫓の方へ向かいました。

追手門(おうてもん)は、城の正面にあたる門で、昭和58年(1983年)に復元されました。石垣の間に門を構え、その上に櫓を載せた櫓門(やぐらもん)の形式です。

門の梁には金色の桐紋が掲げられていて、とても目立っていました。桐紋は豊臣家が用いた家紋として知られています。豊臣秀長の城であることを思い起こさせる意匠でした。
この紋は真ん中の葉が5枚、両端は3枚なので、「五三の桐」と言います。兄の秀吉が葉の枚数が2枚ずつ多い「五七の桐」だったので、兄に敬意を払っていたものと思われます。
追手門のそばには、昭和62年(1987年)に復元された追手向櫓と、昭和59年(1984年)に復元された追手東隅櫓も建っています。
追手東隅櫓の前の説明板によると、この櫓が現在の名前になったのは柳沢氏の入城後で、それ以前は、秀長の重臣・桑山氏の屋敷があったことから「法印郭」とも呼ばれた曲輪の、南東の隅の櫓として呼ばれていたそうです。

城跡の一角には、明治41年(1908年)に奈良県で最初の県立図書館として建てられた旧奈良県立図書館の建物があります。昭和43年(1968年)にこの地へ移築され、現在は城址会館として使われています。
城跡の中にもう一つの「歴史的建造物」があるのは、郡山城ならではの見どころです。
「秀長と郡山のあゆみ」展|発掘品で見る豊臣期の郡山城
追手門近くの東多聞櫓では、展示「秀長と郡山のあゆみ」が開かれていました。2026年1月から2027年1月までの期間で開催されている展示です。

展示は「大和大納言」秀長の紹介から始まります。秀長の肖像画とともに、郡山城で使われていた迫力ある鬼瓦が並んでいました。
「秀長による郡山振興」のパネルでは、奈良や堺から商人を集めたこと、箱本制度が秀長の死後も受け継がれたことが紹介されていました。

天守の金箔瓦も展示されていました。小さな破片ですが、豊臣の城の華やかさを今に伝える貴重な資料です。
天守と本丸の姿を再現したCG映像もあり、石垣の上にどのような建物が建っていたのかを想像しやすくなっていました。
井戸枠に転用されていた石仏も展示されていました。石垣だけでなく、城のさまざまな場所で石材が転用されていたことが分かります。
金箔押しされた五輪塔の地輪も印象に残りました。

郡山城下町を歩く|春岳院と箱本十三町の町並み
城を出て、秀長がつくった城下町を歩きました。町の角々には、その町の由来を記した「ここは箱本十三町」の案内板が立っています。
堺町は、豊臣秀長が泉州堺から商人を集めた町だそうです。秀長の商業政策が、町名としてそのまま残っているのが興味深いところです。
春岳院|豊臣秀長の菩提寺



春岳院は、大和大納言・豊臣秀長の菩提寺です。豊臣家が滅んだ後に秀長の位牌と墓所の管理を託された寺院で、秀長の事績に関わる文化財が今に伝えられています。
春岳院には、大和郡山市指定文化財の「豊臣秀長画像」と、奈良県指定文化財の「郡山町箱本関係資料」が伝わっています。また、平成元年に制作された「豊臣秀長木像」があります。
内部は撮影禁止でしたので、残念ながら画像はありません。
秀長画像は狩野派の絵師の作と推定され、天明8年(1788年)、当時の郡山藩主・柳沢家が当院で秀長の二百回忌を営んだ際のものと考えられているそうです。
豊臣家の滅亡から170年以上たっても、郡山を治める柳沢家が秀長の法要を営んでいたことに、郡山の人々にとっての秀長の存在の大きさを感じました。
箱本関係資料は、天正年間の地子免除や商業的特権を証明する文書などからなり、町々はこれらを納めた御朱印箱を月交代で保管・管理したといいます。明治時代、秀長以来の恩典に感謝して当院へ奉納されたものだそうです。
城下町の自治の証が、秀長の菩提寺に納められているというのは、町の人々の秀長への思いが感じられる話でした。
紺屋町|紺屋川が流れる藍染めの町

続いて、秀長がつくった町の一つである紺屋町を訪ねました。
紺屋町は、藍染め(あいぞめ)を営む職人が集まった町で、通りの真ん中を細い紺屋川が流れています。かつてはこの水路で染めた布を洗っていたといわれ、城下町の町割がよく残る風景でした。
近くの豆腐町は、その名のとおり豆腐の製造業者が集まった商人町だそうです。同じ仕事をする人を一つの町に集めた、秀長の町割がよく分かります。

大織冠鎌足神社|秀長が迎えた鎌足公の御霊

大織冠鎌足神社は、藤原鎌足(ふじわらの かまたり)公を祀る神社です。
由緒碑によると、天正13年(1585年)9月、郡山城に入った秀長が、多武峰(とうのみね)の談山神社に祀られていた藤原鎌足公の御神霊を、郡山城の西北の地に仮殿を設けて遷座し、社領五百石を寄進しました。
天正15年(1587年)11月には本殿が竣工し、後陽成天皇の綸旨(りんじ)により翌16年4月に遷座祭が執り行われました。「大織冠宮」と呼ばれて城の守護神として祀られ、付近一帯は「大織冠」と呼ばれるようになったそうです。
その後、天正18年(1590年)12月に御神霊は多武峰へ帰られましたが、御分霊を奉斎したのがこの大織冠鎌足神社だと記されていました。
秀長が大和を治めるにあたり、大和の人々が篤く信仰してきた鎌足公を城の近くに迎えたことは、大和の統治を考えるうえでも興味深い出来事だと感じました。
これは、秀吉が関白になれたことも関係していると思われます。関白は藤原家の中でも五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)からしか選ばれません。当時の関白職は、二条昭実と近衛信輔の間で争われており、秀吉はこの「関白相論」に介入する形で自身の関白就任を実現しました 。さらに、秀吉は近衛家の猶子となることで公家社会における血筋の条件をクリアし、藤原秀吉として朝廷に認められる立場を得ました。
そのため、藤原家の祖である藤原鎌足を祀った意義があったのだと思います。
大納言塚|豊臣秀長が眠る墓所
最後に、秀長の墓所である大納言塚を訪ねました。大和郡山市指定史跡です。
説明板によると、天正19年(1591年)1月22日に郡山城内で亡くなった秀長は、この地に葬られました。当初は秀長の菩提寺・大光院が建立され、墓地の管理と菩提を弔っていました。
豊臣家が滅んだ後、大光院は藤堂高虎によって京都の大徳寺の塔頭として移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました。
その後、墓地は荒れてしまいましたが、安永6年(1777年)に春岳院の僧の努力と郡山市中の協力によって、外回りの土塀などを整え、五輪塔が建てられました。五輪塔の高さは約2メートルです。
昨年と比べて、碑がきれいになっていました。

そして、大河ドラマの影響だと思いますが、門の中には入れなくなっていました。

門の前には「お願いの砂」がありました。秀長は優しく賢く、今の大和郡山の基礎を築いた人物であることから「学問の智将」とも言われているそうです。
名前と願い事を言いながら、門前の石の箱へ三回お砂を通すと願い事を聞いていただける、と書かれていました。

グルメ編|大和郡山の城下町で和食ランチ
紺屋町で和食のランチ

紺屋町の「翁」さんで和食のランチをいただきました。
お造りや色とりどりの小鉢が並び、紅葉をあしらった器や敷紙に秋らしさを感じました。城跡を歩いた後の、ほっとするひとときでした。
AIで想像した郡山城の天守と門
最後に、写真をもとにAIで郡山城の天守と門のイメージ画像を作ってみました。
あくまでAIによる想像図で、史実の姿を再現したものではありません。発掘調査で天守の存在は確かめられていますが、その外観は分かっていないことにご注意ください。


石垣の上に天守が建っていたら、と想像しながら天守台を眺めると、城跡の見え方が少し変わる気がします。
郡山城の基本情報
城名郡山城(こおりやまじょう)別名大和郡山城所在地奈良県大和郡山市城内町築城者筒井順慶築城時期天正8年(1580年)ごろ城郭形式平山城主な城主筒井氏、豊臣氏(秀長・秀保)、増田氏、水野氏、松平氏、本多氏、柳沢氏主な見どころ天守台と展望施設、さかさ地蔵などの転用石、追手門・追手向櫓・追手東隅櫓(復元)、極楽橋、旧奈良県立図書館文化財指定国史跡(郡山城跡)、続日本100名城最寄り駅近鉄橿原線 近鉄郡山駅アクセス近鉄郡山駅から徒歩約7分まとめ|郡山城で印象に残った3つのこと
今回の郡山城めぐりで、特に印象に残ったのは次の3つです。
1つ目は、石垣に積まれた転用石です。逆さ地蔵や墓石が積み込まれた石垣からは、豊臣期の築城の勢いと、石材が乏しい奈良盆地ならではの苦労が伝わってきました。
2つ目は、天守台の発掘成果です。礎石や金箔瓦から、ここに豊臣の天守が確かに建っていたことが分かり、天守台からの眺めがいっそう特別なものに感じられました。
3つ目は、秀長がつくった城下町の仕組みが今も町に息づいていることです。箱本十三町の案内板、春岳院の御朱印箱、そして大納言塚。城と町をあわせて歩くことで、秀長が郡山に残したものの大きさを実感しました。
2週連続で豊臣家ゆかりの城めぐりをすることができ、濃縮して学ぶことができました。
次は、筒井順慶がもともと本拠とした筒井城跡や、関ヶ原の後に郡山城の建物が移されたと伝わる伏見城ゆかりの地も訪ねてみたいと思います。
また、秀長が兄・秀吉とともに天下統一を進める中で関わった城も、改めてめぐってみたいと感じました。



