こんにちは
一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニックです
院長の城めぐりをご紹介します
今回訪れた城は兵庫県明石市にある明石城です
連郭梯郭混合式平山城、別名「喜春城」や「錦江城」と呼ばれています
1617年(元和3年)、信濃松本より小笠原忠真が国替えとなり、当初は明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城しました
1618年(元和4年)、西国諸藩に対する備えとして、第2代将軍徳川秀忠より小笠原忠真に築城が命じられました
小笠原忠真は岳父である姫路城主の本多忠政と相談しながら、築城から町割りまで行いました
築城の候補地として、塩屋・和坂・人丸山の3か所を選定し、その中から大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に絞り、将軍秀忠の許可を得ました
ちなみに城下町の町割図は宮本武蔵によって作成されたそうです
1619年(元和5年)、正月から築城が開始され、年末には本丸御殿が完成
1620年(元和6年)、本丸に4つの三重櫓が完成
1631年(寛永8年)、三の丸下屋敷台所より出火し、本丸御殿などが焼失しました
1632年(寛永9年)、小笠原忠真が豊前小倉藩(小倉城)に転封となり、翌年信濃松本より 松平庸直(戸田松平氏)が7万石で入封
以後約50年間は親藩や譜代の城として城主が目まぐるしく入れ替わり
1682年(天和2年)、松平直明が越前大野から6万石で入封し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平家が藩主を継投しました
1881年(明治14年)、小学校の建築用材とするため、北東の艮櫓が解体されました
1901年(明治34年)、 巽櫓と坤櫓の修理が行われ、北西の乾櫓が解体されたました、また傷んでいた本丸や二の丸本丸土塀も取り壊されたそうです
1918年(大正7年)、県立明石公園として開園し、以後は公園として野球場や陸上競技場、テニスコートなどが整備されていきました
1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災により石垣が崩れるなどの大きな被害を受けましたが、1999年(平成11年)に修復工事が完了
2003年(平成15年)、三ノ丸に「武蔵の庭園」が整備され、一般公開されました
2006年(平成29年)4月6日、日本100名城(58番)に選定されました
私は100名城めぐりも趣味ですので、到着後早速スタンプをゲットしました
旅行記を紹介します
電車で最寄りの明石駅に移動し、駅よりは徒歩で向かいました
駅の北側を見ると、すぐに明石城の堀に着きます
この日は晴天で、堀の水と新緑と青い空が良く映えていました
駅から5分程度歩くと「太鼓門跡」に着きました
ここは枡形虎口となっており、正面入り口に「定ノ門」と呼ばれる高麗門が、直角に曲がった先に「能ノ門」と呼ばれる櫓門がありました
「能ノ門」には時刻を告げる大太鼓が備え付けられていて、この枡形虎口全体を「太鼓門」と呼んでいたそうです
更に進むと、左に坤櫓(ひつじさるやぐら)、右に巽櫓(たつみやぐら)がお目見えします
この2つの櫓は日本に12基しか現存していない貴重な三重櫓です
巽櫓は船上城から、坤櫓は伏見城から移築されたと伝わっています
次に巽櫓の東側より本丸に進んでいきます
なだらかな階段を登り
さらに折り返して登っていくと
巽櫓の前を通り、本丸へ向かいます
2つの櫓をつなぐ城壁のほぼ真ん中に展望台があり、明石の市街地を望むことができます
巽櫓側(東側)には遠く「明石海峡大橋」を望むことができます
坤櫓側(西側)には公園内の「明石トーカロ球場」を眼下に見ることができます
更に本丸を進むと天守台に着きます
天守台は熊本城天守と同規模で、5重の天守が建築可能な大きさでしたが、結局天守閣は1度も建築されることはありませんでした
天守閣がないため、本丸には展示施設のような場所はなく、二ノ丸、三ノ丸を通り、城外にある市立文化博物館に寄り、明石と明石城の歴史についても学んできました
最後に「明石城 武蔵の庭園」に立ち寄りました
宮本武蔵が明石の町割りや城内の樹木屋敷の設営に関わったことにちなんで整備されたそうです
そして、明石といえば「明石焼き」と「蛸飯」ですね!!
明石駅の南側にある魚の棚商店街のお店で頂きました
明石の地元では「玉子焼」と呼ばれております、フワフワでとっても美味しかったです
今回の旅は徳川譜代・親藩の城として築かれた明石城を通じ、城や城下町の歴史だけでなく、地元明石の名物まで頂くことができ、有意義かつ大満足な城めぐりでした