2026/8/12
院長の城めぐり vol.38(公山城、武寧王陵)
世界遺産・公山城へ!百済の古都・公州を日帰り旅|武寧王陵&名物グルメも満喫
こんにちは。一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニック院長の中下陽介です。
今回の城めぐりでは、韓国忠清南道・公州市(コンジュ/공주시)へ行ってきました。
今回の最大の目的は、世界遺産公山城(공산성)。
さらに、同じく世界遺産の武寧王陵と王陵園(무령왕릉과 왕릉원)を訪れ、公州の地元グルメと名物の栗スイーツまで楽しみました。
公州は百済が475年から538年まで都を置いた古都。
日本から韓国へ旅行するとソウル中心の観光になりがちですが、少し足を延ばすだけで、約1500年前の百済の王都を歩くことができます。
しかも今回はソウルから高速バスを利用して日帰り。
結果的には朝8時に明洞を出発し、17時45分には明洞へ戻ることができました。
今回実際に回った「公州日帰りモデルコース」
韓国に不慣れな方が多いと思いますので、実際に移動したルートと時間などを具体的に伝えながら城めぐり情報をお伝えします。
8:00 明洞駅発(地下鉄4号線⇒忠武路駅乗り換え⇒地下鉄3号線)
8:25 高速ターミナル駅着
9:35 ソウル高速バスターミナル発
11:15 公州総合バスターミナル着
11:35 世界遺産・公山城着、約1時間散策
12:45 土俗食堂で昼食
13:00 徒歩で武寧王陵と王陵園へ向かう
13:15 世界遺産・武寧王陵と王陵園着、約30分散策
13:45 徒歩でスイーツ店へ向かう
14:00 公州名物の栗スイーツを購入し、店舗2階の飲食スペースでコーヒーとおやつをいただく
14:40 店舗より徒歩でバスターミナルへ向かう
15:05 公州総合バスターミナル着
15:30 公州総合バスターミナル発
17:05 ソウル高速バスターミナル着
17:15 高速ターミナル駅発(地下鉄3号線⇒忠武路駅乗り換え⇒地下鉄4号線)
17:45 明洞駅着
明洞→公州→明洞で約9時間45分。
これだけの時間で、世界遺産を2か所巡り、地元料理と名物スイーツまで楽しむことができました。
明洞から公州へ出発!
朝8時、宿泊している明洞を出発。
地下鉄でソウル高速バスターミナルへ向かいます。
8時25分には到着しました。
バスの出発は9時35分なので、かなり余裕があります。
ターミナル内のコンビニでおにぎりとコーヒーを購入し、待合室で軽めの朝食。
海外で長距離バスに一人で乗る場合、乗り場を探す時間も考えると、このくらい余裕を持って到着しておくと安心です。
チケットはあらかじめネットで予約できるので、便利でした。

高速バスで公州へ
9時35分、ソウル高速バスターミナルを出発。
今回、KTXではなく高速バスを選んだ理由の一つは、公州の市街地まで直接行けることです。
KTXの公州駅は中心部から離れています。そこから公州の市街地まではタクシーで約30分かかるそうなので、高速バスを選択しました。
一方、公州総合バスターミナルなら到着してそのまま市内観光を開始できます。

しかも、高速バスはプレミアムタイプでしたので、3列シートで画像のような席に座れるので、プライバシーも確保でき快適な旅でした。

そして11時15分、公州総合バスターミナルに到着。
所要時間は1時間40分でした。
錦江沿いを歩いて公山城へ
バスターミナルからは、地元の風を感じたいため、タクシーには乗らず、徒歩で公山城へ向かいます。
ここで最初に出会うのが、錦江(クムガン/금강)です。

実は、この川を見ることが今回の城めぐりでは重要でした。
公山城は単独で存在する城ではありません。
山と錦江という自然地形を利用して築かれた城だからです。
公州の街を流れる大きな錦江を眺めながら歩いていくと、やがて公山城が近づいてきます。

世界遺産・公山城へ
そして今回最大の目的地、公山城(コンサンソン)に到着。

入口付近には、「世界遺産 百済歴史遺跡地区 公山城」の碑があります。

2015年、公山城は武寧王陵などとともに「百済歴史地域」の構成資産としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。
なぜ公州が百済の都になったのか?
ここで少し歴史を振り返ります。
百済は高句麗、新羅とともに朝鮮半島の三国時代を形成した国です。
もともとの都は現在のソウル周辺にあった漢城でした。
ところが475年、高句麗の長寿王による攻撃で漢城が陥落。
百済第21代蓋鹵王も命を落とします。
国家存亡の危機に陥った百済は、次の文周王の時代に都を南へ移します。
その新しい都が、熊津(ウンジン)=現在の公州でした。
つまり公州は単なる地方都市ではなく、滅亡寸前まで追い込まれた百済が国を立て直した場所なのです。
公山城を約1時間かけて歩く
今回は公山城を約1時間かけてゆっくり散策しました。
城内は思っていた以上にアップダウンがあります。

なだらかな広い坂道をゆっくり進みますが、昼になると、さすがに8月の公州、暑い!
しかし、登った先で待っていた景色は素晴らしいものでした。城から見下ろす錦江は圧巻です。
眼下を大きく流れる錦江。その向こうには現在の公州市街が広がります。
実際にこの場所に立ってみると、「なぜここに城を築いたのか」がよく分かります。
山による高低差と大河・錦江。まさに天然の要害です。

約1500年前、百済王も見た錦江
現在は川に橋が架かり、その向こうには高層住宅が並んでいます。
しかし約1500年前には、まったく違った風景だったはずです。
475年、首都を失った百済の王や人々も、この山から錦江を眺めていたのでしょう。
日本の城めぐりでもそうですが、城そのものを見るだけでなく、「なぜこの地形が選ばれたのか」を考えながら歩くと、城めぐりは一段と面白くなります。
その後は城壁沿いに狭い道を上り下りしながら進みます。結構ギリギリの崖なので、スリル満点でした。

錦江(クムガン/금강)を望む萬夏樓(マナル/만하루)と蓮池(ヨンジ/연지)
写真右側の美しい楼閣は、萬夏樓(マナル/만하루)です。朝鮮王朝時代の1754年、英祖(ヨンジョ/영조)の治世に建てられました。錦江(クムガン/금강)方面から公山城(コンサンソン/공산성)へ近づく敵を監視する軍事施設であると同時に、川の景色を眺める展望所としても利用されていました。
萬夏樓は洪水によって倒壊し、土中に埋もれていましたが、発掘調査によって建物跡が確認され、1984年に現在の姿へ復元されました。
楼閣の隣にある石積みの遺構は、蓮池(ヨンジ/연지)と呼ばれる貯水池跡です。百済時代から朝鮮王朝時代まで利用されたと考えられ、籠城時にも城内の水を確保できるように造られていました。池は下へ行くほど狭くなる独特の構造で、底まで下りられる石段も設けられています。
雄大な金江を背景に、優雅な楼閣と実用的な貯水施設が並ぶこの場所は、公山城が王城であると同時に、堅固な防御拠点でもあったことを現在に伝えています。

萬夏樓と蓮池のすぐ至近に霊隠寺(ヨンウンサ/영은사)があります。
公山城の守りを支えた霊隠寺
公山城(コンサンソン/공산성)の北側、城壁に囲まれた静かな場所に建つのが、霊隠寺(ヨンウンサ/영은사)です。

霊隠寺は、朝鮮王朝第7代国王・世祖(セジョ/세조)の時代、1458年に創建されたと伝わる寺院です。現在は、麻谷寺(マゴクサ/마곡사)を本寺とする曹渓宗(チョゲジョン/조계종)の寺院となっています。
写真の大きな建物は観日楼(クァニルル/관일루)で、中央には「霊隠寺」と書かれた扁額が掲げられています。その奥には、寺の中心的な仏殿である円通殿(ウォントンジョン/원통전)があります。
霊隠寺は祈りの場であるだけでなく、公山城を守る軍事拠点としても重要な役割を果たしました。文禄・慶長の役の際には僧兵(スンビョン/승병)がここに集まり、訓練を受けた僧兵たちは霊圭大師(ヨンギュデサ/영규대사)に率いられ、錦山(クムサン/금산)の戦いに参加したと伝えられています。
1616年には僧兵を統率する僧将が置かれ、周辺地域の防衛を担う護国寺院としての性格をさらに強めました。城壁の内側に寺院が存在する理由からも、信仰と城の防衛が密接に結びついていたことが分かります。
境内には、清らかな水をたたえた薬水場(ヤクスト/약수터)もあります。山城歩きの途中、この水場の静かな水面を眺めていると、かつてここで修行し、城を守った僧兵たちも、同じように水で喉を潤したのではないかと想像が広がります。

華やかな観光施設ではありませんが、静かな境内には、公山城とともに歩んできた祈りと戦いの歴史が刻まれています。城郭の中に残る寺院という珍しい風景も、霊隠寺の大きな見どころです。
その後も城壁沿いに狭い道を上り下りしながら進みます。

公山城の高台に建つ「光復楼」
公山城の城内を歩いていると、緑に覆われた高台の上に美しい楼閣が姿を現します。
これが光復樓(クァンボンヌ/광복루)です。
公山城東側の高い峰に建つ楼閣で、現在の姿からは想像しにくいのですが、もともとこの場所に建てられた建物ではありません。
もとは公山城北側の拱北樓(コンブンヌ/공북루)の西側にあった「中営」という軍営の門楼で、当時は繋桑樓(ケサンヌ/계상루)と呼ばれていました。
その後、日本統治時代に現在の高台へ移築され、雄心閣(ウンシムガク/웅심각)という名称になります。
そして韓国が日本の統治から解放された翌年の1946年、韓国独立運動を代表する人物である金九(キム・グ/김구)と、後に韓国初代副大統領となる李始榮(イ・シヨン/이시영)がこの地を訪れ、「光復楼」と改称しました。
「光復」とは、文字どおり「光を取り戻す」という意味を持ち、韓国では日本の統治からの解放を象徴する言葉として使われています。
つまりこの楼閣は、百済の王城・公山城の中にありながら、百済時代の建物そのものではなく、朝鮮王朝以降から近現代へと続く公山城の歴史を物語る建物なのです。
公山城というと、どうしても475年から538年までの百済・熊津時代に注目してしまいます。しかし実際には、百済滅亡後も統一新羅、高麗、朝鮮王朝、そして近現代まで、この城は長い歴史を歩んできました。
緑深い山城の高台に静かに建つ光復樓。
百済の王城として始まった公山城が、その後1500年近くにわたってさまざまな時代を見つめ続けてきたことを感じさせてくれる場所でした。

百済王が宴を開いた臨流閣
木々の間から姿を見せる二層の楼閣は、臨流閣(イムニュガク/임류각)です。「臨流」には「川の流れを望む」という意味があり、公山城(コンサンソン/공산성)の高台から錦江(クムガン/금강)を見渡すように建てられています。
『三国史記』(サムグクサギ/삼국사기)には、百済(ペクチェ/백제)第24代国王・東城王(トンソンワン/동성왕)が、500年に王宮の東側へ臨流閣を建てたと記されています。当時の建物は高さ五丈、現在の単位で約15メートルにも達する壮大な楼閣だったとされ、王と臣下が宴を催す場所として使われていたと考えられています。
現在の臨流閣は、1980年に行われた発掘調査の成果を基に、1993年に二層の楼閣として復元されたものです。長く伸びた軒を支える百済建築の下昂式(ハアンシク/하앙식)が再現され、建物を彩る丹青には、武寧王陵(ムリョンワンヌン/무령왕릉)から出土した装身具や、墓室のレンガに残された文様が取り入れられています。
約1,500年前、華やかな衣装をまとった百済の王や臣下たちがここに集まり、眼下を流れる錦江を眺めながら宴を開いていたのでしょう。緑の中にたたずむ楼閣を見上げると、遠い百済王朝の華やかな宮廷風景が、時を越えてよみがえってくるように感じられます。
臨流閣は単なる展望用の楼閣ではなく、熊津(ウンジン/웅진)時代に王権の立て直しを進めた東城王の力と、百済王宮の繁栄を象徴する建物です。
城壁を一周し、再び錦西樓へ
公山城(コンサンソン/공산성)を一周して、最後に出発地点である錦西樓(クムソル/금서루)へ戻ってきました。錦西樓は、公山城に設けられた4つの城門のうち西側を守る門楼で、現在は公山城の正門として多くの人を迎えています。
かつての西門は失われ、その跡も分かりにくくなっていましたが、1859年に編さんされた『公山誌』(コンサンジ/공산지)の記録や周辺の地形を基に、1993年に復元されました。現在の門楼は本来の西門跡より少し南側に建てられていますが、朝鮮王朝時代の城門建築の姿をよく伝えています。
城内を歩くと、百済(ペクチェ/백제)の王宮跡をはじめ、萬夏樓(マナル/만하루)、蓮池(ヨンジ/연지)、霊隠寺(ヨンウンサ/영은사)、光復樓(クァンボンヌ/광복루)、臨流閣(イムニュガク/임류각)など、時代の異なる数多くの歴史に出会います。公山城は、百済の王城として始まり、高麗、朝鮮王朝時代へと受け継がれてきた「歴史の積み重なった城」だったことを実感しました。
最初にこの門をくぐった時には、これから始まる城めぐりへの期待に胸が膨らみました。そして城壁を一周し、さまざまな史跡を見た後に戻ってくると、同じ錦西樓の風景が、出発時とは少し違って見えます。
急な坂道や石段を越え、約1,500年にわたる公山城の歴史をたどって、再びこの門へ――。錦西樓は公山城観光の入口であると同時に、城めぐりの余韻を静かに味わう終着点でもありました。

城めぐりの後は土俗食堂へ
公山城を約1時間歩いたところで昼食です。
訪れたのは土俗食堂(トソクシクタン/토속식당)。

観光地のおしゃれなレストランというより、地元の方が利用する韓国食堂という雰囲気。
こういうお店が大好きです。
料理が出てくると、ご飯と熱々の汁物、そして韓国らしく何種類ものパンチャン(반찬)が並びます。

キムチ、ナムル、もやしなどを全部ご飯に入れ、混ぜてビビンバ(비빔밥)として食べます。
ちなみに、ビビンバ(비빔밥)は「混ぜご飯」という意味です。
写真の中央、ご飯の上にあるのが、ウロン味噌チゲ(ウロン・テンジャンチゲ/우렁된장찌개)です。
ウロン(우렁)と呼ばれる淡水産の巻き貝(タニシ)を、自家製の韓国味噌で煮込んだ、この店の看板料理です。現在の掲載価格は1人前12,000ウォンです。

味噌チゲだけでなく、麦入りご飯、数種類のナムル、自家製の醤「チプチャン(집장)」、キムチなどのおかず、スンニュン(숭늉)が付いた定食として提供されます。
おすすめの食べ方は、ご飯の器にナムルを入れ、チプチャンとウロン味噌チゲを少し加え、テーブルのごま油をかけて混ぜる方法です。ビビンバのように混ぜたご飯と、貝のうま味が染み込んだ味噌チゲを一緒に楽しめます。

なお、土俗御膳(トソクパプサン/토속밥상)とウロン包みご飯(ウロン・サムパプ/우렁쌈밥)は、原則として2人前以上からの注文です。ウロン和え(ウロンムチム/우렁무침)などの単品料理もありますが、複数人で取り分ける量のため、1人での昼食にはウロン味噌チゲが最も適しています。
真夏の山城を歩いた後だったので、しっかりした昼食がおいしかったです。
「城を歩いて、地元の食堂で食べる」これも城めぐり旅行の楽しみです。
今度は武寧王陵へ歩く
昼食後の13時、次の世界遺産へ。
目的地は、公州武寧王陵と王陵園。
こちらも徒歩で向かいます。
百済王陵への入口
写真は、公州・武寧王陵と王陵園(コンジュ・ムリョンワンヌングァ・ワンヌンウォン/공주 무령왕릉과 왕릉원)の入口です。
レンガを積み上げたような二連アーチの門には、右から左へ「百濟武寧王陵」と記されています。門の向こうに立つのは、百済(ペクチェ/백제)第25代国王・武寧王(ムリョンワン/무령왕)の像です。静かな王陵園へ入る前に、百済を再び強国へと導いた王が、訪れる人を迎えているように見えます。

この一帯には、公州が百済の都・熊津(ウンジン/웅진)であった475年から538年頃に築かれた7基の王族墓が残されています。その中で最も重要なのが、武寧王と王妃を葬った武寧王陵です。
武寧王陵は1971年、隣接する古墳の排水工事中に偶然発見されました。約1,500年もの間、盗掘を受けずに密閉されていたため、金製冠飾や耳飾り、石獣、銅鏡など、108種類・約4,600点もの副葬品がほぼ完全な状態で出土しました。
さらに墓室から見つかった墓誌によって、埋葬されていた人物が武寧王と王妃であることや、その没年、埋葬時期まで判明しました。そのため武寧王陵は、韓国の三国時代に築かれた王陵の中で、被葬者が確実に特定されている唯一の例とされています。
この門をくぐると、華やかな百済文化を今に伝える王たちの眠る場所へと入っていきます。単なる観光施設の入口ではなく、約1,500年前の百済王朝へと続く「歴史の門」のように感じられました。王陵群は2015年、「百済歴史遺跡地区」の構成資産としてユネスコ世界文化遺産に登録されています。
その後、約15分歩き、13時15分に到着しました。

百済を再び強国へ導いた武寧王
写真は、熊津百済歴史館(ウンジンペクチェヨクサグァン/웅진백제역사관)に展示されている、百済(ペクチェ/백제)第25代国王・武寧王(ムリョンワン/무령왕)の像です。
これは、公山城(コンサンソン/공산성)前のヨンムン広場(ヨンムンクァンジャン/연문광장)に立つ、高さ約9.5メートルの武寧王像を縮小したものです。館内の像は高さ約1.85メートルで、地域住民からの寄付によって2023年に制作されました。
武寧王は501年から523年まで百済を治め、熊津(ウンジン/웅진)、現在の公州(コンジュ/공주)を都として国の再建に尽力しました。高句麗(コグリョ/고구려)との戦いを重ねる一方、堤防や農地を整備して民衆の生活を安定させ、地方統治の強化にも取り組みました。
521年には中国の梁(ヤン/양)へ使節を派遣し、「高句麗をたびたび破り、再び強国となった」という意味の「更為強国(ケンウィガングク/갱위강국)」を宣言しました。像は、その国書を梁へ送ろうとする武寧王の姿を表現しています。左手に国書を持ち、右手を力強く差し伸べる姿からは、百済の復興を成し遂げた王の自信と威厳が伝わってきます。
背後には、武寧王陵(ムリョンワンヌン/무령왕릉)から出土した金製冠飾や、龍、鳳凰、雲などを思わせる文様が配され、国際性豊かだった百済文化の華やかさを表現しています。
武寧王は、475年の熊津遷都後に混乱していた百済を立て直し、次の聖王(ソンワン/성왕)の時代へ続く繁栄の基礎を築きました。この堂々とした像は、危機を乗り越えて百済を再び強国へ導いた「中興の王」の姿を、現代に伝えています。

武寧王の眠りを守る鎮墓獣
入口に立つ不思議な姿の石像は、武寧王陵(ムリョンワンヌン/무령왕릉)から出土した鎮墓獣(チンミョス/진묘수)を、実物の約3倍の大きさで再現したものです。
鎮墓獣とは、墓への侵入者や邪悪なものを退け、亡くなった人の魂を守る想像上の動物です。さらに、死者の魂を神仙の世界へ案内する役割も担っていたと考えられています。
その姿は、ずんぐりとした体と短い脚、前へ突き出した大きな口を持ち、イノシシやブタに似ています。しかし、頭には鉄製の角があり、胴体には翼を表す文様が刻まれているため、現実には存在しない霊獣であることが分かります。
実物の鎮墓獣は、1971年に武寧王(ムリョンワン/무령왕)と王妃の墓が発見された際、墓室へ続く通路で、外側を向いた状態で見つかりました。まるで約1,500年もの間、王と王妃の眠りを守り続けてきたかのようです。
中国の南朝文化の影響を受けた副葬品ですが、韓国国内の王陵から完全な形で発見された鎮墓獣として極めて貴重であり、現在は国宝に指定されています。実物は国立公州博物館(クンニプ・コンジュパンムルグァン/국립공주박물관)に収蔵されています。
愛嬌のある表情をしていますが、その役目は王陵を守る神聖な番人。王陵園を訪れる人々を静かに見つめる姿は、これから始まる百済(ペクチェ/백제)の歴史探訪を象徴しているようでした。

武寧王とはどんな王だったのか?
武寧王は百済第25代の王で、501年から523年まで在位しました。
百済が漢城から熊津へ遷都した後も、王権は必ずしも安定していませんでした。
その百済を再び安定へ導いた重要な王の一人が武寧王です。
中国南朝との外交関係を深める一方、倭国とも交流しました。
そして武寧王の死後、息子の聖王が王位を継承。
538年には都を熊津から泗沘(現在の扶余)へ移します。
つまり公州は、475年〜538年の約63年間、百済の都だったことになります。
1971年の大発見「武寧王陵」
武寧王陵が現代に姿を現したのは1971年です。
周辺の古墳の排水工事中に偶然発見されました。
しかも大きな特徴があります。
盗掘されていなかったのです。
墓誌が残っていたことから、被葬者が武寧王と王妃であることも確認されました。
被葬者が明確に分かる古代王墓という点でも非常に貴重です。

現在は保存のため墓室へ直接入ることはできません。
それでも、約1500年前の百済王が実際に眠っていた場所を目の前にすると、公山城とはまた違った感慨があります。
公山城と武寧王陵はセットで見るべき
今回、この二つを続けて歩いたことが非常に良かったと思います。
公山城=王が国を治めた場所。
そして、武寧王陵=王が眠る場所。
二つを徒歩でつなぐことで、「城跡」と「古墳」を別々に見るのではなく、百済の王都・熊津そのものを歩いている感覚になります。
公州名物の栗を使った「トシリ米栗パン」でひと休み
武寧王陵と王陵園を見学した後は、再び公山城方面へ歩き、ベーカリー仁和堂(베이커리 인화당)へ。
公州は韓国有数の栗(パム/밤)の産地として知られています。せっかく公州まで来たのなら、栗を使ったスイーツも味わってみたいところ。

今回選んだのは、お店の名物の一つ、「토실이 쌀밤빵(トシリ・サルバムパン)」
日本語にすると「ふっくら米栗パン」といったところでしょうか。
写真を見ると、小さな丸い焼き菓子の中央から栗が顔をのぞかせていて、見た目からして公州らしいお菓子です。
この米栗パンの特徴は、公州で生産された栗を使い、小麦粉ではなく100%韓国産米を使った生地で作られていること。箱にも「公州で生産された公州栗を加工せず直接ゆで、100%国産米の生地で作った栄養菓子」と説明されています。
さらに調べてみると、この米栗パンは、韓国初の女性製菓技能長である李仁淑(イ・インスク)氏が考案したものとして紹介されています。
中には栗餡と栗そのものが入り、外側はカステラやホットケーキを思わせる、ふんわりとした食感。栗本来の素朴な甘さを楽しめるタイプのお菓子です。
購入後は店舗2階の飲食スペースへ上がり、アイスコーヒーと一緒にいただきました。
朝から歩き続けていたので、冷たいコーヒーがおいしい!

公山城を歩き、百済王が眠る武寧王陵を訪れ、最後にその土地の名産である栗のお菓子を味わう――。
こうして歴史だけではなく、その土地ならではの食文化まで楽しめるのも、城めぐり旅行の魅力です。
これで今回の公州旅が完成したような気がしました。
お土産にもよさそうな公州スイーツ
米栗パンは箱入りで販売されており、パッケージには、「贈答品・団体注文・プレゼント用、全国宅配可能」とも書かれていました。
仁和堂では米栗パンのほかにも、手作り栗パイ、栗マドレーヌ、栗パウンドケーキ、栗塩パンなど、公州栗を使ったさまざまなお菓子が販売されています。
公州の歴史を楽しんだ後のおやつとしてはもちろん、公州旅行のお土産にもぴったりの「ご当地スイーツ」だと思います。
公州からソウルへ
14時40分に店を出発。再び徒歩で公州総合バスターミナルへ向かいます。
15時05分到着。帰りのバスは15時30分発なので、25分の余裕がありました。
15時30分、公州を出発。17時05分にはソウル高速バスターミナルへ戻ってきました。
さらに地下鉄で明洞へ移動し、17時45分、明洞到着。朝8時に出発したので、所要時間は約9時間45分。
それでも、世界遺産・公山城+世界遺産・武寧王陵と王陵園+公州の地元料理+名物の栗スイーツまで楽しめました。
公州はソウルからの日帰り城めぐりにおすすめ
今回実際に行ってみて感じたのは、公州はソウルから十分日帰りできるということです。
しかも公州市内ではほぼ徒歩で観光できました。
高速バスを利用すれば、公州総合バスターミナルを起点として、錦江 → 公山城 → 昼食 → 武寧王陵 → 栗スイーツ → バスターミナルと一筆書きのように巡ることができます。
歴史を知ってから歩くと、公州はさらに面白くなります。
475年、高句麗によって漢城を失った百済が、この地へ都を移す。
公山城を中心に王都を築き、武寧王の時代に国力を回復。
そして538年、聖王によって都は扶余へ。
今回歩いたのは、まさにその百済・熊津時代の中心地でした。
さらに百済は古代日本とも深い交流がありました。
そう考えると、公州の歴史は決して韓国だけの歴史ではありません。
日本の古代史ともつながっています。
城、歴史、世界遺産、グルメ。
すべてを楽しめた公州日帰り旅。
ソウルから少し足を延ばして、本当に良かったと思える城めぐりになりました。
そして公州を歩いたら、次に行きたくなる場所はやはり、百済最後の都・扶余。
次はぜひ、扶蘇山城を歩いてみたいと思います。



