こんにちは

一宮市の耳鼻科、楓みみはなのどクリニックです

院長の城めぐりをご紹介します

今回も愛媛のお城シリーズです

今回訪れた城は愛媛県今治市にある今治城です

瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城であり、当時は「吹揚の浜」と呼ばれた砂丘地帯だったため、別名吹揚城(ふきあげじょう)とも呼ばれています

縄張りの形式は輪郭式平城、天守の構成は連立式、天守は創建当初は5重層塔型とされており、現在のものは1980年(昭和55年)に復興された5重6階の望楼型模擬天守です

1602年(慶長7年)藤堂高虎によって築城が開始され、1604年(慶長9年)に完成しました

三重の堀に海水を引き入れており、当時は海から堀へ直接船で入ることができる海上交通の要所今治ならではの海を最大限に活用した城であり、日本三大水城の一つに数えられています(残り2つは以前城めぐりした高松城(香川県高松市)と中津城(大分県中津市))

 安土桃山時代の天守は望楼型天守が主流でしたが、構造上無理があり風や地震に弱く、必ず屋根裏の階ができるため使い勝手が悪かったため、高虎は今治城で新たに層塔型天守を創建しました

これは矩形(くけい;各頂角が直角である四辺形、長方形)の天守台を造成し、その上に規格化された部材を用い各階を順次小さくして天守全体を組み上げたため、構造的な欠陥が解消され、各階別に作事が可能なことから工期も短縮できたそうです

今治城建設以後、高虎がこの様式を江戸城をはじめとする城郭普請(天下普請)に採用したことで、層塔型天守は近世における天守建築の主流となりました

1609年(慶長14年)高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと言われています

高虎自身は移封されましたが、今治領2万石は飛び地として残り、養子の高吉の居城となりました

1635年(寛永12年)高吉は伊賀国名張に移封し、伊勢国長島城より松平(久松)定房が3万石で入封し、海側の郭を大改修しました

以後は明治維新まで今治藩久松松平氏の居城となりました

広大な城郭は江戸時代の260年間保たれましたが、明治維新以後、建造物のほとんどが取り壊され、内堀と主郭部の石垣だけがほぼ完全に遺りました

このとき二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されましたが、1871年(明治4年)の火災により破壊されました

1980年(昭和55年)5層6階の模擬天守が鉄筋コンクリートで建てられました、再建において明治時代に撮影された丹波亀山城の古写真や平面図などが参考にされたとのことです、しかしなぜか望楼型です??

1985年(昭和60年)東隅櫓が御金櫓(おかねやぐら)として外観復元されました

1990年(平成2年)二の丸西隅に山里櫓が外観復元されました

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(79番)に選定されました

私は100名城めぐりも趣味ですので、到着後早速スタンプをゲットしました

2007年(平成19年)鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟ともに外観復元され、二の丸に藤堂高虎の像が建立されました

 

旅行記を紹介します

空路松山空港に移動し、空港からはレンタカーで移動しました

前日の宇和島城、河後森城、大洲城めぐりの後、松山市内に宿泊し、松山城、湯築城めぐりの後に訪れました

駐車場がお堀のすぐそばにあり、そこより歩いて進んでいきます

駐車場より土橋を渡ると

再建された鉄御門に着き、そこを通過すると

二の丸広場に着き、再建された天守閣と藤堂高虎像がお目見えします

さらに進むと、天守閣に着きます

石落(いしおとし)を見ることもできます

天守閣内は資料館となっており、天守の模型や

甲冑や刀、古文書などが展示されており、城の歴史について学ぶことができます

昭和時代再建の模擬天守らしく、普通の階段を上り進んで行きました

6階からは、今治の市街地を望むことができます、天気が良く、素晴らしい見晴らしでした、さらに先には瀬戸内海と島々並びにしまなみ海道の来島海峡大橋(黄色線)を望むことができました

この方向から見ると、どれ位海から近いかが分かります、今治城の堀は海につながっているため、潮の満ち引きにより潮位が変わり、ボラやチヌ(黒鯛)などの海水魚もたくさん泳いでいますし、堀底から真水が湧いているところがあり、淡水魚のメダカも泳いでいます

再度二の丸広場に戻り、山里櫓にも行きました、内部は古美術館となっていました

 

そのついでに、しまなみ海道を渡り、同じく今治市にある、続日本100名城(178番)に指定されている能島城(のしまじょう)にも行ってきました

最近では和田竜氏著の「村上海賊の娘」でも有名です

村上氏は拠点別に3家あり、能島(のしま)・来島(くるしま)・因島(いんのしま)村上氏の3家が連携と離反を繰り返しつつ、互いに強い同族意識を持っていたとのことです

来島村上家は伊予国守護河野氏の重心として活動、因島村上家は始めは周防国大内氏に仕え、後に中国地方の覇者である毛利氏の毛利水軍として勢力を誇りました

それに反して能島村上家は独立性が強く、特に村上武吉の時代には、毛利氏(安芸;広島県)・大友氏(豊後;大分県)・三好氏(阿波;徳島県)・河野氏(伊予;愛媛県)などの周辺の戦国大名と友好関係、時に敵対・緊張関係となりながら独自の姿勢を貫いたとのことです

中世、その能島水軍が能島城を築いたとされています

この付近の海域は瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであったため、通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、帆別銭(一種の通行料)を徴収し、この海域の制海権を掌握していました

能島城には本丸や二の丸、三の丸、出丸などがあり、中世の水軍城としても規模が大きいものでありました

戦国時代末期、村上氏が豊臣秀吉との戦いで敗北し、1588年(天正16年)、秀吉の海賊停止令により、水軍の歴史は終わりを告げたと同時に能島城は廃城となり、江戸時代以降無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されているそうです

2017年(平成29年)4月6日、能島城が続日本100名城(178番)に選定されました

能島上陸&潮流クルーズにて直接島に上陸できるそうですが、今回は時間の関係で能島城の近くにある「村上海賊ミュージアム」に行って来ました

小説『村上海賊の娘』の本屋大賞受賞を記念した石碑も展示されていました

村上海賊が使用していた小型船を復元した「小早船(こはやぶね)」が展示されていました

これは「繋船石(けいせんせき)」といい、宮窪町戸代沖、古波止より発見され、1983年(昭和58年)村上文彦、村上恒文両氏によって引き揚げられました

船を繋ぐ木柱を立てるためと推測される直径25~30cmの円形孔が穿たれた花崗岩の台座です

ミュージアム入り口には村上武吉の次男村上景親像があります

景親は小早川氏や毛利氏の家臣となり活躍し、毛利氏が防長2ヶ国へ移封となった後は屋代島(周防大島)の1500石を与えられて父・武吉と共に移住し、毛利家御船手組の組頭となったそうです

ミュージアム内は古文書や復元品が展示されており、能島村上海賊の活躍を紹介しています

3階の展望室には「しまなみ空中散歩」があり、目の前には瀬戸内海に浮かぶ能島城跡(黄色)が、足元には空からみたしまなみ海道が広がっています

空から見た能島城の写真です

ミュージアムを出て、海岸沿いからも能島城(黄色)を撮影してみました、全てを合わせるとイメージが湧きやすくなります

ミュージアム観覧後、近くにあるお店でランチを頂きました

やはり、鯛めしですね、美味しかったです(*^o^*)

今回の旅は、第1回に訪問した伊賀上野城を築いた藤堂高虎の築城の歴史を学んだり(次回は愛媛のお城シリーズの続きで福山城です)、ハラハラした登城をしたり、地元愛媛の名物まで頂くことができ、有意義かつ大満足な城めぐりでした